【創作長編小説】天風の剣 第119話
第九章 海の王
― 第119話 ドーナツの向こうの青空 ―
キーン――。
愛馬バームスの手綱を握っていたアマリアは、強いめまいを感じていた。
肌が泡立ち、まるで雷に打たれたような感覚が体中を走る。
「来る……!」
背後から迫る、巨大な魔のエネルギー。
アマリアは、それが父母や親族の仇であると感じ取っていた。
「四天王パールが……!」
魔導師オリヴィアも、ダンも同様に気付いているようだった。
「皆、馬の速度を上げて!」
白い大きな虎のラジャを走らせつつ、オリヴィアが、王都守護となった他の大勢の者たちにも呼びかけてから、魔法の杖を天に向かってかざした。
「防御の魔法、風壁隠守!」
シュウウウ……!
オリヴィアが呪文を唱えると、風が不思議な音を立て、全速力で馬を駆る王都守護軍の周りに集まってきた。そしてその風は、王都守護軍をすっぽりと覆い隠すように包んでいた。
魔法により集められた風は、守護軍の皆を中心としてぐるぐると回っているようだった。しかし、不思議なことに周りの木々はまったく揺れていない。風であって風でない、風としての作用は消されていた。
普通の人間の目には見えないし感じられないが、魔法を使う者たちには、それが魔の者の目から見えないようにする透明な壁、とても強い魔法であるということがわかった。馬たちも、まったく怯えることもなく、自分たちを囲む、その流動し続ける見えない壁ができても、走る速度が変わることはなかった。
とても強力な皆の気配を隠すための魔法……! すごい……! こんなに広範囲にかけられるなんて……! でも――。
アマリアは、オリヴィアのとても高度な魔法に驚き、オリヴィアに対して改めて尊敬の念を抱きつつも、こみあげてくる不安を消せないでいた。
この強い魔法でも、四天王パールの目から逃れられるかどうか――。
それに、きっとこれは一時的な魔法なのだろうとアマリアは思う。強い魔法であればあるほど、持続することは困難になってくるものなのだ。
「少し、進路を変更します! 森を目指しましょう!」
オリヴィアが叫ぶ。来るときは通らなかったルートだった。オリヴィアは、自然の守りの強い場所を選んで進もうとしているようだった。
少し、守護軍の進路が西にずれる。そのとき、アマリアはハッとした。
四天王パールの進路もずれている! やっぱり気付いている……! 私たちを目がけているんだ……!
そうアマリアが気付いた、そのときだった。
アマリアの隣で、愛馬バディを走らせていたダンが、速度を緩め始めていた。
「兄さん!」
アマリアは、ダンに向かって叫ぶ。まさか、とアマリアは思う。
バディは、他の守護軍の馬たちの進路を妨げないよう気遣いながら失速していた。
ゆっくりと、しかし確実にダンとバディがアマリアから遠ざかる。
アマリアは振り返り、ダンの顔を見た。アマリアは息をのむ。ダンは、微笑んでいた。とても、優しい微笑み――。
まさか、兄さんは皆の仇を討とうと……!
アマリアも、バームスの手綱を緩め、速度を落とそうとした。
私も、お父さんとお母さん、皆の仇を討つ……! 兄さんと一緒に……!
アマリアの頬に光る、一筋の涙。アマリアは、唇を噛みしめた。
しかし、バームスは変わらず全力で走り続ける。アマリアは、ハッとした。自分とバームスの周りに、緑色の光が飛んでいる。それは、あたたかく、走り続けるバームスの疲れを癒し、励ますような光――。
これは、兄さんの魔法……!
ダンの微笑み。
どうして――!
ダンは揺るがない瞳で、柔らかな微笑みを浮かべていた。
いつも、優しかった兄。
魔法の練習がうまくいかなかったときも、ダンは励ましてくれていた。できるまで、傍にいて見守ってくれた。
大丈夫、そう言って笑ってくれた。この俺ができたんだから、お前にできないはずがない、ぜったい明日はできるはずだ、とりあえずおやつでもどうだ、そう言っておやつを持ってきてくれた。
あれは確か、お母さんの作ったドーナツ。
夕暮れ。セミの声が、どこか悲し気に響いていた。長い丈の草が揺れる。
どうしてできないんだろう、悔しくて、涙がにじむ。
「アマリア、お前は本当に頑張った」
ダンは、おやつのドーナツを持ってきてくれた。そしてドーナツを一つ手渡すと、もう一つの自分の分を半分に割って、半分余計にくれた。
「兄さんのぶんの、この半分のドーナツも、もらっていいの?」
「ああ。食べてみろ。明日、きっといいことがある」
不思議なことに、その次の日魔法は成功した。
「昨日できなかったのに、なんで今日できたのかな」
不思議に思い、ダンに質問した。ダンは、真面目な声でぽつりと答えた。
「それはきっと、今日の頑張りのぶんのおやつを、昨日食べておいたからだろう」
「あの兄さんのくれたドーナツは、今日のわたしの頑張りのぶんだったの?」
「うん。たぶん、それが前祝いっていうものだ」
思わず、ふうん? と首をかしげた。
よくわからなかった。おめでとう、今度は今日のお祝いって、ダンはまた自分の分のおやつのドーナツを半分くれた。
これはきっと、兄さんの魔法だ、と思った。
できるようになったのは、兄さんの魔法。おやつの魔法。ドーナツの魔法!
兄さんはすごい、景色がきらきらと輝く。ドーナツもすごい、甘い香りに胸を弾ませつつ、余計にもらった半分を頬張った。
ありがとう、飛び跳ねながら感謝の言葉を伝えた。そして、残りの自分のぶんのドーナツの穴越しにダンを見上げる。
まあるいドーナツの窓の向こう、ふわふわの雲の浮かんだ青空を背に、兄はあたたかな微笑みを浮かべていた。
とっても素敵な魔法だなあ!
できなかったことができた嬉しさ。優しい眼差しに包まれる喜び。ドーナツの甘さが口いっぱい広がっていくごとに、幸せも広がっていく。
口をもぐもぐいわせつつ、にっこりと笑う。
ダンが、甘い物がそんなに好きではなかったということが判明するのは、そのだいぶあとのことだった。
亜麻色の髪が後ろに流れる。風の壁の魔法の中でも、自然の風を肌で感じていた。
大地を蹴る馬たちの蹄の音、土埃。
アマリアは、バームスを止めようとした。
しかし、なぜか手綱をうまく操ることができない。
止まって! バームス!
アマリアはそう叫んだつもりだった。どんなにアマリアが叫ぼうとしても、声が出なかった。
緑の光。アマリアの目の前にも、緑の光が飛んでいる。
アマリアは、アマリア自身にも、ダンの魔法がかけられていることに気付く。それは、行動を抑制しているにもかかわらず、魔法をかけられた者の心身に負担をまったくかけない守護の魔法だった。
アマリアを乗せたバームスは、ダンの魔法の力により、速度を保ったまま走り続けていた。
兄さん! お願い! 私も一緒に……!
声が出ない。緑の光がにじんで見える。
私も一緒に、戦わせて……!
アマリアの叫びを、涙を、優しい光が包んでいた。
「ダンッ! なにをやってるんだ!」
隊列の最後尾に、愛馬グローリーに乗るライネがいた。ライネは、自分がダンに追いついたこと、というより後退してきたダンの姿に驚き叫ぶ。ついにダンを乗せたバディは、ライネの後ろを走り始めていた。
「最後尾は、俺が――」
そうライネが、グローリーの速度を落としつつ叫んだ。
「ライネ」
蹄の音で、声を張り上げないと聞き取りにくかった。
「あ?」
ライネは、大声で聞き返す。
「ソフィアさんに、よろしく伝えてくれ」
大声でなくても、その言葉はライネの耳に届いた。
「なにを言って――」
ほんのひとときだけ、大地を力強く蹴る蹄の音が、消えたような気がした。
もしかしたら魔法。もしかしたら、大切な言葉だから。
しん、と切り取られた静寂の空間の中、ダンの声がはっきりと響く。
「幸せになってくれ、と」
さっ、とライネの顔色が変わる。ライネは、必死の形相で叫んだ。
「ダン! ばかなことを考えるのは……!」
ダンは、静かに微笑むと、翠からもらった「棒状の武器となるもの」から変化させた、樹木のようなごつごつとした魔法の杖を空高く掲げた。
「偉大なる魔導師、オリヴィア殿の魔法の壁よ、我と愛馬バディを外の世界へと導きたまえ……!」
ザアッ……!
風が、左右に分かれた。ライネの目には、透明な扉が開くように見えていた。
「ダンーッ!」
ライネの叫び声が響き渡る。
ダンと愛馬バディは、オリヴィアの防御の魔法の外へ出ていた。
進路を合わせて変えた四天王パール。彼の目にはきっと、防御の魔法は奇妙なもの、とても魅力的なものとして映っていることだろう。
しかし、その手前に佇む魔法使い。そこにまず関心を向けるはずだ、そうダンはにらんでいた。
自分の魔法の力というより、翠による強力な魔法の杖。それを見逃すはずがない、そうダンは踏んでいた。
「……時間稼ぎくらいにはなるだろう」
ダンは、重い鉛色の空を瞳に映す。
「バディ。巻き込んで、すまんな」
ダンは低い声で一人呟くと、バディの首元を撫でた。
◆小説家になろう様、pixiv様、アルファポリス様、ツギクル様掲載作品◆
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