【創作長編小説】天風の剣 第103話
第九章 海の王
― 第103話 とび色の、長い髪 ―
月明かりの下、長く緩やかに波打つとび色の髪を、風に揺らして佇むヴィーリヤミ。
それはもう、以前の彼ではなかった――。
「ヴィーリヤミさんの体を、乗っ取ったというのか……!」
キアランは愕然とした。あの獣たちを率い、そして獣たちの体に入り込んで操っていた魔の者が、今度は魔導師ヴィーリヤミの体に入り込んでいたとは――。
「ヴィーリヤミさんを、返せ!」
花紺青が叫んだ。花紺青の髪が逆立つ。
ザッ……!
キアランは目を見張る。目の前に立っていたはずのヴィーリヤミの姿は、すでにそこにはなかったのだ。
上か……!
キアランが見上げると、大きな月を背にヴィーリヤミが高く飛び上がっていた。
次の瞬間。ヴィーリヤミの鋭く長い爪が、キアランに襲いかかる。
速い……!
キアランはその場を飛び下がりヴィーリヤミの爪をかわす。しかし、ふたたび容赦なくヴィーリヤミの爪がキアランの間合いに飛び込んでくる。
ガッ! ガッ! ガッ!
キアランは天風の剣を使わずに、ヴィーリヤミの攻撃を、腕や肘を使って払いのけるようにし、かわし続けた。
目前に迫る鋭い爪。風を切る音をさせながら、幾度となく繰り出される。
しまった……!
キアランは、とっさにヴィーリヤミの胸元を手加減なしで蹴りつけてしまっていた。腕や肘では防ぎきれないほど、ヴィーリヤミの踏み込む速度が速く、そして力強かったのだ。
ヴィーリヤミは吹き飛ばされ、背後の木の幹に激突する。そしてその衝撃で、ヴィーリヤミの口から血がほとばしる。
ヴィーリヤミさんの体を傷つけてしまった……!
キアランがハッとしたとき、隣にいた花紺青が叫ぶ。
「だめだっ……! やはり人間の意識にまでは入り込めない……!」
「花紺青! ヴィーリヤミさんからやつを追い出すよう試みていたのか」
「うん、でも、できなかった……。獣から追い出したあのときのように、できないかと思ってやってみたんだけど……。僕の力では……」
ゆらり、とヴィーリヤミは立ち上がる。ヴィーリヤミは、口を開けた。血で染まった口が、黒い穴のようにぽっかりと開く――。
「キアラン! やつはヴィーリヤミさんの魔法を使う気だ!」
花紺青が叫ぶ。そして、ヴィーリヤミの口から魔法攻撃が放たれようとしたそのとき――。
「ヴィーリヤミ卿!」
生い茂る草木をかき分け、オリヴィアが駆けつけてきた。
「いったい、どうなさったので――」
オリヴィアの顔はたちまち蒼白になり、言葉が途中で止まる。あのときの魔の者が体に侵入し、体を操られている、オリヴィアの優れた能力は、花紺青の説明を待たずに、ヴィーリヤミを見て即座にそう感じ取ったようだ。
オリヴィアは、手にした魔法の杖の先で円を描くようにし、それから大地に激しく杖の先を打ち付けた。そして、呪文を唱える。
「森の精霊よ、我に力を……!」
オリヴィアの魔法の杖が光を帯びる。
「緑光封印っ……!」
ザザザザザ!
絡み合うツル性の植物のような緑の光が、オリヴィアの杖の先から放たれる。そしてその光は大地を這い、あっという間にヴィーリヤミの体を包み込む。
ガアアアア……!
ヴィーリヤミの口から、獣の吠える声がした。
「魔の者よ、ヴィーリヤミ卿から離れなさい! それは森の精霊の力を借りた聖なる術、あなたには耐えがたい力のはずです……!」
ヴィーリヤミは緑の光に縛られ、身動き取れないようだった。しかし――。
ヴィーリヤミの赤い目が、ゆっくりとオリヴィアを睨みつけた。そしてニヤリと、ヴィーリヤミは笑う。
『失、せ、よ』
それは、ヴィーリヤミの持つ魔法の力を使ったものだった。
バンッと、大きな音を立て、ヴィーリヤミの全身をおおっていた緑の光が、粉々に砕け散る。
「そんな……!」
オリヴィア、キアラン、花紺青は絶句した。
「オリヴィアさんの魔法が……」
オリヴィアは、最高位の魔導師と呼ばれていたはず。まさか、即座に術を破られるとは、キアランは動揺していた。
確かに、オリヴィアのほうが、魔法の才能の面でも技術の面でも、ヴィーリヤミより優れていた。しかし、赤目自体の魔の力が加わり、その魔力はオリヴィアの力を超えるものとなっていたのだ。
「なにごとですかっ……!」
異変を察知した魔法使いや僧兵たちが駆けつけてきた。
ヴィーリヤミの首が、声のしたほうへ回される。ぎ、ぎ、ぎ、と、まるで、機械でできた人形のような動きで――。
『滅、せ、よ』
血で染まった、黒い口。ぞっとするような、冷たく低い声――。
「! ヴィーリヤミ卿!」
オリヴィアの悲鳴のような叫び声。そして、その直後――。
「うわああああ!」
たくさんの悲鳴、断末魔の叫び。ヴィーリヤミから発せられた魔法が、黒い影となり森の中を走り、駆け付けた魔法使いや僧兵たちに襲いかかった。
魔法使いや僧兵たちは、あのときの魔の者たちのように、炎のような光を放ちつつ倒れ、そして、煙を上げて消失してしまった。
『あのくらいの人間どもなら、実に簡単だな』
ふう、とヴィーリヤミの姿の赤目がため息をつく。
「貴様……!」
キアランが、叫ぶ。大気を揺るがすような、激しい怒りに震えた声で。
『異質な存在や、そこの子どもの従者、それから魔法で私を縛ったそこの女なら、ああ簡単にはいくまいが』
冷気のような息と共に言葉を発したあと、ヴィーリヤミは、ふたたび高く飛び上がった。ヴィーリヤミの長いとび色の髪が、あっという間に遠ざかる。ヴィーリヤミは木の上に立ち、それから木の枝から木の枝へと飛び移る。
「待てっ……!」
ヴィーリヤミは、ルーイのテントへ向かっていた。
「花紺青、オリヴィアさん! ヴィーリヤミさんを元へ戻す方法は……」
キアラン、花紺青、オリヴィアもテントへと駆け出す。
キアランの質問の答えは、返ってこなかった。ふたりとも、険しい表情のままキアランと共に走り続けた。
『滅、せ、よ』
頭上の枝から、魔法が発動される。テントの周りに集まってきた魔法使いと僧兵たちが、悲鳴と共に消えていく――。
「やめろーっ!」
キアランは、叫んだ。声が枯れるほど、喉が裂けてしまうのではないかと思われるほどの叫び声で――。
もう、ヴィーリヤミさんを、殺すしかないのか……!
ヴィーリヤミを殺したとしても、魔の者の急所を攻撃しない限り、魔の者を仕留めることはできない。しかし、ヴィーリヤミの動きを止めない限り、殺戮は続く――。
バリバリバリッ!
ヴィーリヤミの鋭い爪が、ルーイのテントを引き裂いた。
ルーイ!
キアランは、走る。キアランに、選択の余地はなかった。
絶対に、ルーイを守る……! ルーイ……!
キアランが唇を噛みしめ、渾身の力で天風の剣をヴィーリヤミの背に向かって投げつけようとした、そのときだった。
「おじちゃん! なにやってるの!」
キアランの腕が止まる。
見上げれば、大きな月の中に四枚の翼を持つ幼い少女の影。
テントのてっぺんに、シトリンが立っていた。
「シトリン……!」
キアランは、なぜこんなときに、と思った。そして、シトリンの言った「おじちゃん」の意図がわからなかった。シトリンとヴィーリヤミの接触は、キアランたちは知らないままだったからだ。
ヴィーリヤミの、動きが止まった。
不思議だった。キアランたちにとって、それは理解不能なできごと、ただただ不思議でしかなかった。
なぜ、ヴィーリヤミの動きが止まったのか。それは、シトリンの出現と関係あるのか――。
シトリンが、ヴィーリヤミの目の前に降り立つ。
「おじょうちゃん」
ヴィーリヤミの口から、ヴィーリヤミの声がした。それは、確かに彼の声そのものだった。
「来てくれたんだね」
ヴィーリヤミは、微笑んだ。それは、人間らしい、どう見ても人間としか思えない微笑みだった。
「どうしたの? おじちゃんほど強い魔法を使う人間が、どうして乗っ取られちゃってるの?」
シトリンは、キアランたちの緊張した空気を意に介さず、ゆっくりとしたいつもの口調で問い続けた。
ヴィーリヤミは、首を左右に振った。
「おじちゃんは、残念ながらそんなに強くないんだよ」
「そうなの?」
「やつのほうが、強かった。私は、弱いから支配されたんだ」
「残念だなあ」
「うん。残念だ」
とことこと、シトリンはヴィーリヤミに近付き、その両手を取った。いつの間にか、爪は普通に短くなり、ヴィーリヤミの爪に戻っていた。
「せっかくお友だちになれたのに」
「そうだね」
「もう、時間がないんだね」
「うん。やつは、強いから。でも、こうして最後に話せてよかったよ」
キアランたちは、なにが起こっているのか、なんの話をしているのかさっぱりわからない。
ヴィーリヤミは、優しい声で続ける。
「もう、どうすればいいか、おじちゃんはわかってる。やつが私の中に入ってから、やつのことは手に取るようにすべてわかるからね。やつの、急所も。だから、やつの急所を、動かないよう抑えた。まあ、やつを抑える術を完成させるのに、時間がかかってしまったけど」
「やっぱり、おじちゃんは強いよ」
「そうかな」
シトリンは、ヴィーリヤミの手をずっと握っていたが、その手をそっと離した。そして、少し宙に浮かび、とび色の髪を撫でる。
「その髪型、似合うね」
ヴィーリヤミは、ため息をつきつつ、笑った。
「皆に言われた。不本意だったが――」
ヴィーリヤミは、ヴィーリヤミの魔法によって主を失った僧兵の剣を、拾い上げた。それは、まるで落ちた誰かの帽子を拾うような、自然で軽やかな動きだった。
ヴィーリヤミは、笑う。そして、笑いながら――。
ドッ……!
「! ヴィーリヤミさん!」
キアランは、叫んだ。
月明かりの中、赤く、赤く血が吹き上がる。
ヴィーリヤミが、自分の胸元に自分で剣を突き立てていた。
そして、ヴィーリヤミは、その手で剣を引き抜き、ステージの道化のように、大げさな手振りで挨拶をした。
「ふふ。最後の私の魔法の力で、やつの急所を、我が心臓付近に抑えつけた。これで、やつもおしまい、めでたし、終幕、退場さ……」
ヴィーリヤミは微笑み続けた。それは、笑顔を張り付けた、悲しい道化のようでもあった――。
「これで、私もおしまい。楽しいお茶会も、守護軍に入ったのも……、髪形を褒められたのも……、今までの私の人生のどの幕にもない、非常に得難い体験……、だったよ」
音を立て、ヴィーリヤミは倒れる。血が静かに鮮やかに、広がっていく。
「おじちゃん……」
「おや……。四天王でも、泣くのかな……?」
ヴィーリヤミは、シトリンの頬に手を伸ばそうとした。でもうまく届かない。シトリンはヴィーリヤミの手を取り、自分の頬にあてた。
「……これが、泣くっていうことなんだね」
シトリンは、そう呟いた。シトリンの頬に、大粒の涙が流れ続ける。
ヴィーリヤミは、うなずく。そして今度は道化のようにではなく、仮面を外した人間のように、幸せそうに、満足そうに、微笑んだ。
ヴィーリヤミは、肺一杯に深く空気を吸い込んだ。
「……白状しよう。最後だからね」
ヴィーリヤミは、シトリンを見つめる。しかしその焦点もおぼろげで、黒い瞳はもうなにも映していないようだった。
「皆に褒められて、本当は、嬉しかったんだよ――」
ヴィーリヤミの体から、黒い糸状のものが流れ出る。血だまりに広がる、たくさんの、たくさんの糸状のもの。
ヴィーリヤミも、黒い糸状のものも、動くことはなかった。
静寂が、辺りを支配した。ただ、緩やかに波打つとび色の長い髪が、風に揺れていた。
◆小説家になろう様、pixiv様、アルファポリス様、ツギクル様掲載作品◆
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