さらけ出さなくても、えぐらなくてもいいんだよ。
もも(momo)さんの記事の、とある言葉に心が揺れた。
momoさんは、松浦弥太郎さんの『エッセイストのように生きる』をお読みになり、その感想を書いておられる。
その記事のなかに、この言葉が出てきたのだ。
この文章は、自分を傷つけていないか。
なるほど。
他人(読み手)を傷つけないかどうかは、けっこう真剣に配慮して書いてきたが、そういえば自分のことはあまり考えていなかったな。
はたと冷静に思いながら、自分の記事を思い返した。
自分なんてダメ、わたしなんてクソ。
みたいなことはさすがに書いてない、と思う。
生きていると、そういうことを考えがちな性格なのだが、わざわざnoteにはそんなことを書いてしまわないよう、気をつけている。
他人が読む記事で、わざわざ自分をけなす必要なんてない。
やりたければ、日記でやればいい。
ただ、ふと思ったのは。
とある内容やエピソードについて書こうとしたときに、「これを書くと、自分を傷つけそうだ」と感じることは幾度かあったな、ということだった。
わたしの下書きには、記事に書こうとしたものの、書く手が止まってしまった内容やエピソードがけっこうある。
そして、それらはなんとなく「自分を傷つけそう」な雰囲気があって。
そういうときは、書くのをやめて、完成を見送った。
それを書くことで、不必要な傷を負う。
それを書くことで、えぐらなくてよかった傷を、わざわざえぐって、おのれに見せつける。
投稿を優先するあまり、そんなことをしそうになったことがあって。
でも、「自分のすべてをさらけ出してまで、これを書く必要ってある?」と自問したとき、「ない」という答えに落ち着いたので、結局それらの下書きは、未完のままその辺のフォルダに転がしておいた。
書かなくてよかったと思っている。
傷つきながら書いた日は、不安な気持ちにつぶされるだろうし。
傷つきながら書いた記事は、自分も読み手も不幸にしただろう。
いままで、書こうにもうまく書けないときは、単なる文章力不足なのかと思っていたが、それだけではなかったらしい。
きっと、心が「自衛」しているのだ。
自分が自分を、傷つけないようにしてくれている。
心がざわつくとか、冷静でいられなくなるとか、そんな心の動揺を「傷つく」とするならば、その思い出すは、書き時ではないのかもしれない。
わたしの場合は、おもに4つ。
高校の部活。
両親の不仲。
イヤな別れ方をした友人。
心残りな失敗。
どんなことかは、まだ書けない。
これらはどれも、いったん書きはじめたことがある。
強烈な思い出だったので、良いネタになりそうだとおもったし、書くことで消化できるのではと考えていた。
でも、書くにつれてだんだん苦しくなった。
記事に書くためには、そのときの自分の内面を振り返らなければならない。
でも、振り返ってもうまく言葉にならなかった。
今のわたしでは、その当時のわたしの気持ちを言葉にしきれなかった。
それどころか、苦々しさやもどかしさにすら襲われる。
___やめよう。
いつかまた、時が経って、このことが気持ちよく書けるその日まで、忘れておこう。
そう思って、そっと記憶に蓋をしておく。
見ないように、傷つかないように。
そうやって、いまは逃げる。
それくらいがちょうどいいときもある。
記事には、心のど真ん中をえぐるようなことは避けて書いたっていい。
人生の端っこにある、当たり障りのないところだけを、まるで、クッキーの端っこだけをちびりちびりとかじりとるように、書く。
それもいい。
それでもいいんだ。
自分を傷つけるよりは、ずっといい。
「記事にはしない」という選択があることを、わたしは覚えておいた方がいいんだろう。
いつか時が経ち、向き合う勇気と余裕が出たら、書いてみたいことがいっぱいある。
そのとき、傷はかさぶたになり、書けば一本前に進めるはずだ。
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