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まずは「良き妻」の呪いをひとつ、捨てる。


「今日夫がいないから、夜ご飯手抜きできるの」
ママ友が、言った。

「今夜は旦那さんいないの?ほな適当適当」
先輩ママが、言った。

「今日はお父さんお仕事か。じゃあカンタンごはんでええな!」
そのへんで会ったオバちゃんが、言った。



お父さんがいない夜は、手抜きオッケー。
わたしの周りではよく聞く言葉だ。

でも、よく考えたら何かおかしい。

夫の不在と、わたしの料理の手抜き具合に、どういうつながりがあるというのか。

夫がいる日も、料理の手を抜きたかったら、抜けばいい。
夫がいない日でも、自分や子どものために凝った料理を作ったっていい。


それなのにわたしは、無意識にこれを受け入れ、口にし、実際、そんなふうに過ごしてきた。

今日旦那いないなら、適当でいっか。
子どもらの麺だけ茹でて、わたしはレンチンでいっか、って。



どうして、いつのまに。
そんなふうに思うようになったんだろう。


夫は、わたしのご飯に文句を言ったことはない。
「品数が少ない」とか「もっと手の込んだものを作れ」なんて、一回も言わない。
どちらかといえば「適当でいいよ」「冷凍スパゲッティにしよ」「白ご飯に海苔でいい」と言うくらいだ。
それもどうかと思うけど。


それなのにわたしは、夫がいる日は「ごはん、汁物、メイン、おかず」を作るのがフツウだとおもっていた。
そして、それが作れないときは「手抜き」。
夫がいるのに「手抜き」っぽくなった日は、夫に「今日手抜きやねん、ごめんね」と謝っていた。

なぜ、謝る必要があるのだろう。
わたしは何に「罪悪感」を抱いているのか。


これは、「良き妻」の呪いなのだ。

わたしは心のどこかで、良き妻とは、夫のために丁寧にこしらえた料理を、テーブルに並べるものだと思い込んでいる。
夫がいない日は、ラクしていい。
夫の前では、良い妻でなければ、と。


この思い込みは、どこからきたのだろう。
小さい頃の親のすがたや、祖父母のすがた、テレビや漫画から影響を受けているのだろうか。

それは、じわじわとわたしの奥底に根を張り、むくむくと静かに成長していたのだろう。

おかげで今、その「思い込み」を払拭できないまま、大人になり、妻になり、母になって、「良き妻の呪い」にとらわれている。



一度、やめよう。
夫がいない日は手を抜ける、なんて。
そんな悲しいこと、言わないようにしたい。

夫がかわいそうなんじゃない。
夫がいない日じゃないと、料理の手を抜くかどうかも選べない。
そんな人間だという「思い込み」を、自分の手で捨てるのだ。



良き妻の呪いだけじゃない。
良き母の呪い、良き女の呪い。
わたしは「女」の呪いに振り回されている。

そんな「女」の呪いに立ち向かう女性たちを描いた作品。
山内マリコさんの『あたしたちよくやってる』


短編とエッセイで綴られるどの物語にも、「女らしさ」と戦うたくましい女性が登場する。

量産女子の服装に身を包んでイケメンの彼女を演じているけど、ほんとうはもっとパンクな服が着たい女の子とか。

母になり、子育てに追われ、夢ばかり見ていた若い頃のことすら思い出せない、何者でもない女性とか。

まだ読みかけだが、どのエピソードからも、鋭いのに繊細な女のガラスの心がありありと見えてきて、読むたびにグサリと何かが刺さる。

そうだ、わたしもこういうことあった。
でも、いつのまにか忘れていた。

「女らしさ」、「妻らしさ」、「母らしさ」。
そんなことばかり気を取られて、いつのまにか「自分らしさ」を見失っている。
そのことに気づいて、ハッとする。

「女の子らしく」は女の子を縛る。それを広める勢力へのレジスタンスとして、深い反省と次の世代への希望を込めて、「自分らしく」の肩をどんどん持っていきたい。
"女の子らしく"の呪いを解くことができるのは、"自分らしく"しかないのだから。

同書、p.28.29



わたしも、「自分らしさ」を取り戻したい。

「良い妻」で「良い母」でありたいとは、もちろん思う。
でもそれは、世間一般が生み出した「理想像」なんかではなく。

あくまで「わたしらしい」を中心に据えて。
わたしの延長線上に、その存在を目指すのだ。

その第一歩として、まずは。
夫がいようがいまいが、関係なく、わたしはご飯を手抜きします。

よし、今夜のご飯は、冷凍うどんだ。


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