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書くことで、うしなわれた「ほんとう」の部分。


ひさしぶりに、1ヶ月ほど連続投稿していたようだ。


10日ほど投稿するたび、休みをとっていたときと違って、「とりあえず投稿する」と決めてしまえば、案外なんとかなるものだ。


工夫したことといえば、「お蔵入り」を少なくすることだ。
いままでは、気に入らないと、完成した記事もすぐに没にしてきた。
しかし、それだとストックがたまらない。

だから、「イマイチかな」と思うような出来のものでも、とりあえず出すことにする。
そう決めると、滞りなく投稿できた。

記事づくりに、「完璧」も「終わり」もない。
連続投稿のおかげで、改めてそのことに気づかされた。

そりゃあ、どの記事もなるべく上手く書きたいし、自分が満足いくものにしたい。
読みやすくて、親切な記事にしたい。
そう願って作っても、やはりどこかしら不満足な部分はできてしまうわけで。

でも、毎度毎度、時間をかけて練り直して、推敲を繰り返すことはできない。
それだと、いつまでたっても完成しない。

磨いて磨いて、満足するまで磨いてからでなければ投稿できないのでは、一生先へは進めない。

割り切って、手放すしかないのだ。
連続投稿は、そういう踏ん切りの付け方を教えてくれた。


◇◇◇

さて。
毎日投稿をしながら、ふと思い出したことがある。

島田潤一郎さんの『長い読書』の言葉だ。

いずれにせよたぼくは、我を忘れているのであり、ふだんの言葉とは違う、紋切り型の文句(インターネット・スラングのようなものだ)をつかって、相手を傷つけようとしたり、その逆に、みなの衆目を集めようとしたりしている。
たいていの場合、我に返る。(中略)
でもまれに、そのままSNSや、ブログに投稿してしまうこともある。
そのとき、手のひらには汗びっしょりで、しばらくは相手の反応が気になって、なにも手につかない。

島田潤一郎『長い読書』


これは、島田さんがSNSや記事を書いているときに感じた注意というか、気をつけねばとおもったことだそうだ。

わかる。
毎日投稿を続けていると、ときどきわたしも、似たような気持ちにおそわれるから。


毎日投稿そのものに執着すると、こうなる。
投稿や完成にばかりこだわると、焦るあまり、頭のなかにあった考えや、心に思い浮かべていたイメージをうまく捉えられなくなるのだ。

それでも、書いて投稿したい。
そうやって先を急ぐせいで、適当に転がっている言葉のなかから、イメージに近いものを使って文を書くようになる。

たいして感動していないのに、「涙があふれた」とか。
ちょっと驚いただけなのに、「息が止まった」とか。
口ざわりのいい言葉は、そこらじゅうに転がっているから。

そして、そんなのを拾い集めて、それっぽく並べると、いい具合に記事ができる。
大急ぎで推敲して、投稿する。
はい、今日の投稿のぶん、終了。



でも、これでよかったのか?
自問自答におちいる。

ほんとうは、もっとべつに、書きたいことがあったんじゃないのか。
わたしが伝えたかったのは、これだったか。
適切な言葉は、これだったか。
わたしが見た景色は、感じた色は、こんな言葉で表すものだったのか。

投稿した途端、分からなくなる。
不安になる。

そういうとき、投稿した記事は、しばらく見れない。
通知も、noteのアプリも、開かない。
まるで、わたしの「ほんとう」はコレじゃないんだと、見てみぬふりをするかのように。

島田さんは、こう続ける。

文章を書く前のほうが、あるいはその「紋切型の文句」を知らなかったときのほうがずっと豊かなイメージを胸に抱いていたのに、いくつかの便利な言葉と引き換えにそのイメージを失う。

島田潤一郎『長い読書』



ああ、そうそう。
ほんとに、そういうことってある。

もっとこう、違う景色が伝えたかったはずだったんだ。
でも、うまい言葉が見つからなくて。

だから、「もう、これでいっか」という気持ちで言葉を選んだ。
とりあえず、書くことが大事なんだとか、あとで修正したっていいんだとか、いろいろ言い訳を頭に浮かべて。


でも、そうすると。

わたしの気持ちは、まるで最初からそれが書きたかったかのように、すり替わる。
もともとあったイメージも景色も、わたしが選んだ言葉に上塗りされる。

「涙があふれた」と書けば、そうだったような気持ちになるし、「息が止まった」と書けば、そんな気にもなる。

あとで修正なんて、しない。
思い出そうとしてみても、いちど書いた言葉に引っ張られると、もとのすがたはもう見えないからだ。


わたしは、書いたことで、書きたかったことを失った。

目先の手柄、つまり記事の完成に執着しすぎて、「ほんとう」の部分を手放してしまった。

自分を自分で偽ったことへの不安や後悔、と、「書いただけマシじゃないか」いう自分へのささやかな励ましが混ざる。


書いて、よかったのかなあ。
書いてしまった後には、心の中で、問いかけることしかできない。

◇◇◇


もちろん、逆もあって。
書くことで、鮮明になる景色もある。

幼少期の記憶なんかは、特にそうで。
ぼんやりと薄まっていた思い出を引っ張り出して、言葉にしてみると、みるみる色を帯びていく。
忘れかけていた、あの日々がよみがえる。
書いてのこせた、安堵感。
書いてよかったと、うれしくなる。


だからこそ、いつも感じる。
言葉にすることの「重み」を。

わたしの見た、聴いた、感じたままを言葉にするのは、とても簡単で、とても難しい。
簡単に書こうと思えば、いくらでも書けるし、いくらでも言葉は拾い集められる。

でも、それが「ほんとうに書きたかったこと」なのかどうか。
ときどき、自分に問いかけてみたい。


連続投稿は、その「問いかけ」の時間が少なくなる。
自分の書きたいものを、じっと見つめる時間が足りない。
焦る。
書くこと、投稿することにとらわれる。


どのくらいのスピードで書くか、投稿するか、休むか。
けっきょく、毎度その悩みに落ち着いてしまうんだけど。

とりあえず投稿するんだ、と決めたので。
しばらくは、投稿し続けるつもりだ。

ただ、ほんとうに書きたいことと、少しでも近い言葉で書き続けられるように。
投稿よりも、「書く」に重きを置いて、書き続けたい。



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