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幸せと苦しみについて

私は現に受験生であるが故に進路について毎日悩みもがいている。


自分の今の学力で第1志望の大学に届くのかどうかの不安

親や先生は自分の希望になかなか賛同してくれないことの苛立ち(正直これが1番大きい。親、先生共に国公立主義で私立志望の自分のサポートをしてくれないことがかなりのストレスである。)

このまま自分の志望校の勉強を続けて良いのだろうかといった迷い(受けさせてくれないかもなのです)


まぁそういった苦しみや悩みが毎日続いておりまして、ふとこう思った。

人間って幸せよりも苦しみの方が感じやすい生き物

なんだなって。

生き物全般に言えることなのかもしれませんが生憎私自身が人間なものでそれ以外の生き物の気持ちがどうかは分からない。

本題に入って、私は小学4,5年生の頃いじめにあっていた過去がある。正直その当時は学校に行くことが苦痛で苦痛でたまらなかった記憶が未だに忘れず残っている。なんやかんやあって、私が小学6年生からはいじめがなくなり、毎日楽しい学校生活を高校2年生くらいまで送れていた。(高3は冒頭に書いてある感じです)


そこでこう感じた。

幸せって何気ない日常のことなのに錯覚している

悩みがなく、何で笑ったかは覚えてないけど小さな喜びがある。それが私の思う何気ない日常。

何気ない日々を送っている環境下では、不自由がなく豪遊したり、望みがなんでも叶ったりすることが幸せと勘違いしている人も多いのではないか?勿論それも幸せだけど、どちらかと言うと夢を見ているといった表現の方が近しいものだと思う。
だからこそ幸せを感じることは難しいことのように感じる。なぜなら当たり前のことが幸せなのだから。

逆に苦しみや悩みとは、一定期間のイレギュラーな日常のことを指すものだから、感じやすい負の感情のことだと思う。(簡単に言えば何気ない日常に慣れすぎてしまっているが故にそれ以外のことに対応しきれていない状態のこと) 

今悩んでいる人へ


自分はまだ歩んできた人生は大体の人より短いけれども、悩みというのは時間が経てばある程度解消されるものだと思っている。
例に出したくはないが、自分の中で分かりやすい例えをするならこれだと思う。

自分はいじめられた経験があるからこそいじめられている人の苦しさが分かる。

当時は小学生ながら死ぬほど悔しくて苦しかった。けれど、いじめられている自分が情けなくてなかなか大人に相談できなかった。
(イジメで悩んでいる子が読んでるならば、すぐに信用出来る大人に相談しなさい。恥ずかしいことじゃないぜ?)

でも今はいじめといった点においては悩みはなく、人を思いやれる優しさを手にすることができた。(てかいじめられたことは覚えてはいるものの今更仕返ししてやりたいとか言った感情は一切ない。)

まぁ何が言いたいかといいますと、悩みや苦しみは一時的なものであって振り返ってみると、そこから得られる経験は素晴らしいものだよってこと。

私も今は受験という大きな悩みにぶつかっているが、10年後とかには周りの大人と喧嘩したことも大切なことだったんだと思っていると信じてる。

しかし「未来は苦しみすらも良いものとなるから今はどうなってもいいや」

と勘違いしないで欲しい。
私が言いたいのは、

「苦しみもいつかは大切なものに変わるだろう」

といった単なる未来予測だ。
本気で悩み、苦しまなくては得られるものも得られなくなる。

幸せは感じにくく、苦しみは感じやすいといった私の自論だが、ここまで読んで貰って私の国語力のせいで伝わっていない人のために聞き慣れた言葉で纏めて締めようと思う。

その言葉とは…






「人生山あり谷あり」

以上、今回も読んで頂きありがとうございました。

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