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透明なかべ、とける【書評 ただ、そこにいる人たち】②

この記事は『透明なかべ、とける【書評:ただ、そこにいる人たち】①』の続きとなっています。①はこちらから


Mさんの「心配なことがありますボタン」

Mさんは大柄な男性で、私が勤務していたグループホームの黎明期から入居している、ベテラン中のベテランだ。

普段のMさんはもの静かで、こちらが言ったことをオウムがえしするかたちでコミュニケーションをとることが多かった。相撲と電車をこよなく愛するナイスガイであり、私は彼と仲良くなりたくて相撲のニュースを見るようになった。最終的にMさんとは、次期横綱の座は誰のものになるのか、熱く語りあう仲になることができた。

このMさん、しかしひとたび気持ちが不安定になると、なぜかきまって火災通報用の赤い非常用ボタンを押そうとする

彼の心の緊急事態を報せるスイッチはどういうわけか外付けであり、しかも厄介なことに私たちスタッフだけでなく外部の消防署ともつながってしまっている。そのため職員時代は消防訓練よりも多くの誤報対応を現場で経験し、そのうちの数件は対応が間に合わず現物の消防車を拝んでしまうこともあった。

颯爽と現場にかけつけてくれ、誤報と知ってもなお「何事もなくてよかったです」とにこやかに帰っていく消防隊の皆様。申し訳なさとともに、頭を下げて間近で見る消防車はぴかぴかで、立派でかっこよかった。男性利用者陣は声にこそださないものの、みな部屋の窓からそのフォルムをこっそり盗み見ていたのを、私は知っている。いくつになっても働く車はかっこいいと、並んだ男児のうっとり顔が雄弁に語っていた。

Mさんの話に戻る。さらにMさんは混乱が極まってくると、ズボンを下ろして股間を見せつけ、そのまま地面へ寝転んで動かなくなる。Mさんは身長190センチ、体重は過去に三桁を上回りそうになったこともある大男だ。そんな彼が大人の姿で子どもさながらに駄々をこねる様子は、見た目も含めて非常にパワフルでパンチが効いていて、全員女性だったスタッフは手を焼いていた。

この書評の文頭に書いた光景も、Mさんが私付き添いのもと作業所に行く途中で必死に出勤拒否をしているときの様子を描いたものだ。

その日はMさんの気持がいつも以上に不安定だった。朝、猛烈な出勤拒否をするも、一時はスタッフの提案を受け入れ、ホームを出るときは意気揚々と出勤準備をしていた。

グループホームから作業所までは歩いて20分ほど。10分ほどの折り返し地点で「仕事をしたくない」という気持ちが再度現実味を増してきたのか、表情が強張っていき、作業所が見えるところにまで差し掛かる頃には数歩進んでは立ち止まるを繰り返し、しまいに「うおお」と哀しそうな声を漏らして、ズボンを下ろし道路に寝そべってしまったのである。

「表現未満、」とは眼鏡のようなものだと。それをかけると、「表現以上」の世界で「迷惑行為」とされたものがなぜか許容され、社会的な価値や糸や目的や成果から抜け出した本来の「その人らしさ」がじわじわと浮かび上がって見えてくる。蕗子さんがこうちゃんの水浴びを「飽くなき探求心」だといったことにも似ている。――

①でも引用した小松さんの言葉を再度借りるとするならば、一見、迷惑行為にあたるこれらの行動すら、その人らしさの滲む「彼そのもの」であり、いうなれば、これもMさんの「表現未満、」なのかもしれないと思う。

スタッフである私たちはMさんがボタンを押さないよう、その直前で制止することはできるが、Mさんがボタンを押してしまいたいという気持ちそのものを、抹殺してしまうことなんて、絶対にできない

しかし残念なことに、消防車は公共サービスの一部であり、本当に必要な現場へと早急に駆けつけられるようにしなくてはいけない緊急性の高いものである以上、Mさんが非常用ボタンを押して消防車を呼ぶことは叶わない。

けれど、彼の心の叫びは本物で、けたたましく棟内や近隣地域にサイレンが鳴り響き、皆の注目がボタンを押したMさんに注がれることによってやっと、慰められるものなのかもしれないのだ。

この「表現未満、」がおもしろいのは、個人への接近に止まらず、社会にも漏れ出していくことだということも付け加えておきたい。(中略)つねに外に開かれているから、それにふれた人の感情や学び(もしかしたら違和感なども含めて)に紐づいた言葉が、じわじわと社会に漏れ出していくのだ。――

Mさんの「心配なことがありますボタン」問題に関しては、スタッフ間で作戦が練られた。結果、「非常用ボタンのうえにMさんが大好きなご尊父の写真を貼りつけ、さらにそのうえからボール紙でできたお菓子の箱を被せる」ことで実行までの時間を稼ぎ、ボタンを押しにきたMさんの話をスタッフが手厚く傾聴することになったのだ。

Mさんは、年がら年中ボタンを押したくってしょうがないのではない。消防車召喚を試みたり股間を開陳したりするときのMさんには、多分に漏れず彼なりにのっぴきならない事情がある。彼はもの静かで自分の気持ちを人に伝えるのがあまり得意ではない。その心のありようを、彼なりに周囲へと報せる一種の表現方法だった。

あるときは、怒っている利用者の矛先が自分に向いているんじゃないかと心配しているときもあったし、シンプルに仕事へ行くのが憂鬱だったこともある。原因がわからないことも多々あったが、彼を占める不安や苛立ちを表現したいがゆえに、言葉よりも先に体が、その行動に奔ってしまう。少なくとも彼の場合はそうで、スタッフとして彼の気持に理解を示したり、トラブルの仲介を提案することで落ち着くことも多かった。


状況はちょっと違うかもしれないが、小松さんが冒頭の私と同じような事態に直面するシーンが本書でも登場する。

小松さんがオガちゃんという利用者とともに二人で散歩に出かけた。二人でゲームセンターへ行って楽しい時間を過ごしたあと、小松さんが帰ろうと声をかけるとオガちゃんは固まってしまい、まったく動かなくなってしまう。この時のことを小松さんはこう振り返っている。

ぼくでも力ずくで排除はできない。万策尽きたぼくは、オガちゃんといっしょに固まることにした。もはや手立てはない。ぼくもオガちゃんとおなじように茫然自失するしかないではないか。男ふたりで肩を落とし、ゲーセンを彷徨い歩いた。――

その光景はまさに、私とMさんとの灼熱出勤風景を強烈に思い出させた。

小松さんと私とでは立場が違うが、その途方に暮れてしまう感覚は非常によく似ていると思う。困っていた小松さんはその後、レッツのスタッフである水越さんの見事な声かけによって無事施設への帰還を果たし、みなでコーラを飲んでげっぷをして笑いあう。

しかし。
時空を超えて、困った私と地面に寝転んだMさんのもとへ水越さんが来てくれるはずもなく

というか私は本来、水越さんと同じように利用者を支援するスタッフであり、私だけでなんとかどうにかしなくてはいけないわけで。

まずは可及的速やかに、Mさんの股間をしまわなくてはいけないのだが、ぴったりと地面に背中をつけ大の字に足を投げ出した状態では、ズボンをずり上げることすら難しい。

観念した私はひとまず持っていたタオルハンカチをそっとそこへ被せた。彼のイチモツがあった空間に四角くややこんもりと、ピンクの小花が咲いた。なんだこれ。

そのときばかりは、田舎であることに心から感謝した。誰もいないおかげで、Mさんはこんなにも悠長に丸出しで抗議活動を続けていられる(本当はダメだけど)。これが都会だったらもうすでにえらい騒ぎになっていたに違いない。なんならニュース番組の合間の珍事件として、お茶の間に披露されてもおかしくないインパクトだろう。

あの手この手で声をかけてみるがMさんは無反応。
私も次第に苦しいを通り越し、悲しくなってきた。

どうしろっていうんだよ。仕事は嫌でも行くものでしょう????
私もいっそこのまま、Mさんと一緒に悲しみに暮れてしまおうか????
迷惑になることをしてはいけませんと習いませんでしたか????
仕事が嫌すぎて地面に転がってしまうMさんが羨ましすぎるんだが???
このまま歩いて家に帰ってやろうか???????
股間のハンカチでマジック披露してやろうか???????

暑さで頭がおかしくなりそうになってきた頃、思わぬ転機が訪れる。
なんと蜃気楼の向こう側から、農協の帽子を被った農家のおじさんが、こちらに向かってやってくるではないか。

不動のMさん、農家のおじさん

まずい。
私はMさんに慌てて声をかけるが、やはりMさんは動かざること山の如し。
そうこうしているうちに、おじさんとの距離はどんどん縮んでいく。
動かないMさん、近づいてくるおじさん、小花柄の股間。脳裏に浮かぶ「田んぼで珍事件!?」のテレビテロップ。

パニックの私をよそに、おじさんは私たちを認めるなり、「こんにちは、今日も暑いですね」と挨拶してくれた。私が挨拶を返して「すみません」と頭を下げる。するとおじさんも苦笑いで、首を横にふってくれた。なんとなく、この道の先にある作業所の人間だということをわかっているような感じだった。

そして、おじさんがMさんにも「こんにちは、暑くないですか?」と声をかける。

すると、あんなにテコでも動こうとしなかったMさんが、さっと立ち上がった。ハンカチが、ひらりと落ちる。あ。

Mさんも笑顔で応じ、「こんにちは。今日の気温は37度」などと、なかなかに社交的な返答をするではないか。私は驚きっぱなしだった。おじさんはMさんの露わになったそこを見ても驚かず、「暑いから、肌を出さないほうがいい。やけると痛い、とくにそこは」と優しく告げる。するとMさんは満面の笑顔で「はい」とズボンを穿いた。

いったい、何が起きてるんだ。

おじさんは、唖然とする私の小花柄のハンカチを拾って「がんばって」と私に手渡し、去っていった。思わぬところで触れた温かい言葉に目を潤ませた私は、しょうがなくそのハンカチで涙を拭った

それからの道中はあっという間だった。「熱中症になったら大変。おじさんも言ってた」と、Mさんは先程と同じ人ではないかのような、しっかりとした足取りでさっさと歩き、さっさと作業所へ到着すると、こちらに目もくれずさっさと建物のなかへと入っていった。

残されたのは、驚きっぱなしの私だけだった。
あの時間はいったい、なんだったんだろうか。

レッツ利用者のオガちゃんの側にいたら、なにかわかるだろうか。

本書では、散歩で立ち寄ったギターショップでアンプが欲しくなってしまったオガちゃん(所持金20円)が、どうしても諦めきれず買おうとレジに持っていき、店員から断られることで不思議とすんなり諦めることができたというエピソードが収録されている。

(スタッフの)高林さんは「店員さんは支援者じゃないから諦めやすかったのかもしれないですね。スタッフだったらこだわってしまったかもしれない。だから外の人たちの関わりが欠かせないんですよ」と最後に付け加えた。――

ひとつわかっているのは、自分のなかにある気持ちを、前述のレッツスタッフ・蕗子さんの言葉を借りて表現するなら、「困っているのは私だった」のかもしれない。私の場合、自分が未熟ゆえにMさんが誰かに迷惑をかけてしまうかもしれないことを、過度に怯えていた。だから、Mさんの気持を第一に引き出して毅然と行動を提案することや、他のスタッフと交代して見守るという柔軟な選択をとれなかったのではないかと思う。

だれがフィットするのか、だれが居場所になるのかはわからない。そこには障害の有無もない。家族の関係ですらない。福祉施設のスタッフであるか、経験者かどうかも関係ない。だれかがだれかの居場所になれる。その事実が、とても強く心に響いた。――


障害がある人と、(いまのところ)ない人の間の、透明なかべ。
ぜひ本書で、旅する小松さんが様々なひとやものごとと出会い、うちとけあう瞬間に立ち会ってみてほしい。透明なかべがとけるのは、人同士が互いに近づいて、かべごしに触れあう瞬間なんじゃないかと思う。

そうして彼らが自分のなかに存在することで、「ただ、そこにいること」が、「障害」が、「福祉」が、自分のものだと思えるようになるはずだ。

『ただ、そこにいる人たち 小松理虔さん「表現未満、」の旅』
(著:クリエイティブサポートレッツ・小松理虔)


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