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透明なかべ、とける【書評:ただ、そこにいる人たち】①

田んぼに囲まれた農道で、灼熱のアスファルトに寝そべり、股間を露わにした男性。そしてその男性の側にいる、私。

さっきまで一緒に歩いていたはずの彼が、不機嫌そうにその場へ寝転がってしまった。どんなふうに声をかけても、彼は岩のように動かない。私は万策尽き、困り果てた。そして、ただただその光景を、じっと見つめていることしかできなかった。

うずたかく見事な入道雲が空へと昇っているのに、地面に寝転んだ彼を見つめるばかりに、私はそれに気づかない。みみずが干からびて死んでいる。丸出しの股間、暑くないんだろうか。なんだか赤黒いし、ちょっとみみずと似てるかも。

ああ、警察呼ばれないといいな――。

じりじりと焦るばかりの、21歳の夏だった。
この私の体験は、書評の後半で詳しく触れようと思う。

ものの見方が変わる3年間だった。私は彼らにたくさんのことを教わった。生徒である私は、新人支援員。
総勢25名の先生は、知的障害をもつグループホームの利用者だ。

最近、ある一冊の本を読んだ。

『ただ、そこにいる人たち 小松理虔さん「表現未満、」の旅』
(著:クリエイティブサポートレッツ・小松理虔)

福島に住む筆者が、浜松の認定NPO法人「クリエイティブサポート・レッツ」が運営する施設を定期訪問し、障害のある利用者とともに「ただ、そこにいる」ことで感じた、その軌跡を綴ったレポート的エッセイ。

本を開くと、当たり前に知的障害者が暮らしている光景が飛び込んでくる。読めば読むほど私は、地元の福祉施設に勤務していたあの3年間のことを思い返さずにはいられなかった。

はじめに言っておくと、本書(この書評もね)は、「障害に関係のある人」だけが読むものではないと思っている。むしろ著者の小松さんは、障害者でも利用者でも当事者でも専門家でもない。福島県いわき市を拠点に、文化芸術などの領域で、場づくり・執筆・メディア制作などを行っている元・新聞記者だ。

この本の真価は、そんな小松さんがある意味「我々の代表」として、レッツの施設を訪れながら、利用者の在り方や支援の在り方にどう心動かされ、最終的に彼らといることが当たり前になったとき、どんな考え方に変わっていたのか――。「障害のある人と友達になった人」の思考の深まりを、追えることに尽きる。

小松さんの体験記を通して、彼らの存在が自分のなかへ鮮明に刻まれる。「ただ、そこにいるだけでいい」。この意味を彼らから知るとき、私たちはやっと、肩の荷を降ろして一息つくことができる瞬間が訪れるはずだ。そして、それと同時に、この社会に身を置く自分という存在を、少しだけ俯瞰で見ることができるようになるんじゃないかと思う。

「らしさ」が守られるとき

私が地元・茨城の福祉法人で知的障害者が集団生活を送るグループホームの支援員として働きはじめた頃、レッツの施設に通い始めた初期の小松さんと似たような雰囲気を味わっていた。

グループホームというのは、障害のある人たちが自立にむけて共同生活を送る、いわばスタッフのいるシェアハウスのことを指す。私が勤務した施設の場合のグループホームは一戸建てタイプの全5棟、各入居者は平均5~6名。合計25名に対し、スタッフが10名、非常勤のパートさんが4名ほど。

支援員と呼ばれるスタッフは、食事や服薬、作業所への出退勤や休日の余暇などに関する彼らの生活をサポートするのが主な業務だ。例えば、薄着の利用者さんへ上着の着用を促したり、予算以上に買い物をしてしまわないか付き添ったり、利用者間のトラブルを仲介したりする。(家事を極めし最強のハウスキーパーもしくは専業主婦・夫を目指す人にとって、キャリアとしてうってつけの職業だと思う)

私がいたところは基本的に障害が軽度、または身の回りのことが自分でできることが入居の条件になっていた。そのため日々は基本的に穏やかで、皆で寝起きし食事を囲みながら、誰かが泣いていたら、誰かがお茶を淹れてあげ、誰かが頭をなでてスタッフと一緒に励ましてくれる。適度に助けあう、そんな善い空気が流れていた

利益を追求することが目的の会社だったらこうはいかないだろう。一定の成果を求められ、出来なければ評価が下がる「業務」とはまったく違う。

グループホームはいわば、小松さんの言葉を借りるなら、「その人の本来の『らしさ』」が大切にされる場所だった。できないことを責められることもなく、できないからと委縮することもなく、ここでは障害が個性となって生活になじんで溶け込んでいる

「らしくいていい」。それは、そこに身を置いて働く私にとっても居心地がいいものだった。サポートに回っているはずの私が、いつのまにか利用者さんに助けられていたなんて場面は数知れない(入浴支援や服薬管理など絶対にミスできない場面はもちろんあるが)。

この場所に漂うメッセージは、ぼくの中にもある「生きにくさ」も優しく包みこんでくれていた。そして同時に、ぼくがいかに「存在価値」のような概念にまみれているかを鋭く突きつけもした。――

小松さんがレッツにいて感じたのも、この空気に近しいものだったのではないかなあと勝手に思いつつ、本書のこの一節に出会ったときは自分の首を縦に振りまくっていた。

あの空気を作っていたのは間違いなく、スタッフでも施設でもなく、25名の特性が異なる利用者さんたちだった。障害があるからこそ、それを個性ととらえてお互いを認め合い、ときには負荷にならない程度でよりそう。他人をはかろうとしない。それが延いては自分の「らしさ」を守ることにつながっていく。

その必要性を、言葉にならなくとも感覚と経験をもってして、老いも若きもみなが理解していた。そんなもののまえに、小娘である私のサポートなぞたかがしれているものだったかもしれない。しかし、ほかでもない彼らが、「私だからこそ出来ることがあるだろう」と、私さえも頼ってくれた。なかなかうまくいかないときもあったけど、なんなら出来るようになるまで辛抱強く頼ってくれた。

それに毎日励まされて、私の支援は成立していた。支援とは、頼ってくれる人がいてはじめて成立する。支援とは本質的にきわめて対等な行為なのだということも、高慢ちきな私はそこで初めて教えてもらったのだ。

「表現未満、」を飲み下す

小松さんが訪れる施設を運営する「NPO法人クリエイティブサポートレッツ(以下:レッツ)」は、障害をもつ子の母であり、空間デザインに造詣が深い久保田翠さんの手によって生まれた。

重度の知的障害をもつ息子のたけし君と、母である自分が自分らしくいられることを模索しながら、たけし君をはじめとする障害のある人々の存在自体が文化創造の軸(=「表現未満、」)なのではないか、という着想から、日々の支援にアート的な観点を織りまぜた施設を次々と立ち上げてきたそうだ。

そんなレッツでは他の福祉施設とはひとあじ違った企画――たとえば、外部向けに施設を開放した滞在ツアー・空間ワークショップを行ったり、先日は施設内でクラブイベントが開催されたそうだ。障害のある人もない人もまぜこぜになって、踊ったり踊らなかったり、奇声をあげたり隅っこで耳をふさいだり、思い思いで楽しそうだ。

クラブイベントの模様。私も奇声をあげて飛び跳ねまくりたい。


ともかくレッツでは、なにげない日々の様子を切り取って積極的に外部へ発信・企画することで、障害者の存在を開いていきながら、いま・ここに誰もが存在することが当たり前になるような包括的な取り組みに注力している。

レッツの障害者支援において重要視されることは、「できないことができるようになること」ではないらしい。私のいた施設では「できないことをできるようになること」を目標に個人の年間の支援計画が立てられていた。

支援をめぐるエピソードとして作中、こうちゃんというひとりの男性利用者が登場する。彼はとにかく水が大好きで、年がら年中水と戯れたいという強いこだわりがある。支援スタッフの蕗子さんは、彼のこだわりは矯正されるべきものではなく個性的なもの――つまり「表現未満、」だと捉えながら、それは彼の「飽くなき探求心」なのだと受け止める。その関係性のなかから支援することの難しさや葛藤が見えてくる。

小松さんは蕗子さんの言葉を聞いて、自分の身に落とし込んで考えたのち、「表現未満、」について、こう語っている。

「表現未満、」とは眼鏡のようなものだと。それをかけると、「表現以上」の世界で「迷惑行為」とされたものがなぜか許容され、社会的な価値や糸や目的や成果から抜け出した本来の「その人らしさ」がじわじわと浮かび上がって見えてくる。蕗子さんがこうちゃんの水浴びを「飽くなき探求心」だといったことにも似ている。――

それなら私にも思い当たることがある。この書評の冒頭にも書いた、グループホームのとある利用者・Mさんとのことだ。

(②に続きます)


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