全てのタブーは出生に通ず

引き続きタブーシリーズに踏み込んでいこう。土足の「汚い足」で躊躇なく。 汚いのは足ではなく「綺麗な家」のほうだったりするが。

この世の中のタブーとは、辿っていくと、「出生」に関するものだ。

「生まれつき~~」うんぬんな。

そしてそれが通用するさらに奥の隠れた前提に、「すべての生まれてくる人は望まれなければならない」がある。

その逆、(生まれてくることは悪であり罪である)を「反出生主義」といったりする。今でこそ、反社会的な少数の立場扱いだが、

ところが、これも時代をさかのぼると特別な見方でもないのである。

古代インドの「カースト」や仏教思想でも、否定まではしなくとも、生まれること自体は特段にきれいでも美しくもないとされている。

むしろ、徳も罪も反映されて人は生まれると、突き放した態度である。生まれも含めて自業自得だと。

反出生とまではいかなくても、因果応報・自己責任だよといっている。

さすがにそれだけでは現代人は納得しないであろう。自己責任といわれても自分の前世まで知ったこっちゃないからだ。

まあ、それは置いておいて、では仮に前世などが無かったとしても、出生の因果関係がなくなるわけではない。

両親の子作りwという最大かつ直接の要素が、子供に影響を与えることは否定のしようがないであろう。

つまり、前世を否定した場合に強まるのは、「親」への風当たり=「親の責任」である。

俺は前世を信じてもいないし否定してもいない。まだわからないという保留の立場だ。

だが、どちらにしても親の責任についてはしっかりと議論しておく必要がある。

ここまでの話を軽くまとめよう。前世と輪廻があるならば、出生にまつわる責任は自分にあり、前世が無ければ親にある

これはすごく簡単な、論理的な帰結である。こんな簡単なものがタブーにされて早何千年。

俺はそこから、親がいかに子の出生を恐れ、怖れてきたのかをひしひしと感じる。

怖れながら抑圧し、気持ちのいい行為wとのはざまで苦しみ、矛盾を見て見ぬふりをしてきたことを。

前世という概念は「親殺し防止装置」であったともいえよう。


さて、これだけ人類のタブーについて断言するのだから、このあたりで俺の在り方を言い切ろうか?

まず、俺に子ができたら「いつでも殺していいよ。絶対に恨まないし、あなたのせいにもしないようにするから」というだろうね。肩たたき券ならぬ、切腹券だね。恩着せがましくなく、負担にならないように。さらっと普通に。

なぜそういうかといえば、どれだけ真心を尽くしても、真の意味で親は出生に対する責任は負えないからである。子に出生にまつわる苦しみを与えたならばたとえ死んでも償えないのである。

逆にいえば、それが親の「覚悟」を示す行動としての最大値(といっても所詮それでさえ気休めレベル)であり、あとは子がなんとかするしかないという、他責・自責の本源、分水嶺を全身で示す行為である。

親の命をもって、困難に当たったとき「親のせい」へ流れる心を解消できるのであれば安いものだろうという意味だ。

勘違いするなよ?「この子のために」だの「愛してる」からだのという甘ったるい理由ではない。自分の罪を自分の責任を全うするために「最低限」まずそれをやるということ。 ためにだの愛だのを語るのはその後にしろ。

そういうことを中途半端に語る奴は、だいたい覚悟ができていないのだ。自分のせいを子供のせいにし、自分のせいにされることを封じ、巧妙に子供のためといいながら嘘をついている。そういう態度こそ、偽善と煮え湯を飲まし、子供に憎しみを募らせ、世界を暗くしていることに気付け。


すべきことはまだある。 親自身が生き方として嘘をつかないことだ。子が生まれてからそうしたのではダメで、生まれる前からせねばならない。

嘘をつかない最大の在り方にまず必要なのは、自分とその親との関係を整理し心から納得を得ることである。それができないまま子が生まれるというのは、すなわち、同じ苦しみを子が味わっても俺私のせいじゃないという意味以外にない。そしてそれを証明するように、子は似たような苦しみを味わい、そこから逃げて押し付けるように新たな子を作るのである。

子が最も苦しむのは、親が子作りの前に分かっていながら、親自身の悪い部分醜い部分を解決しないまま、それを自分に受け渡したと直感したときである。その直感ほど、全人類共通にある不思議な能力もないだろう。

例え科学で解明されようがされていまいが子は直感して当たっているのだ。

親に似ても、幸せな人と苦しむ人に分かれるのはその点である。欠点といわれる性質でも、親が解決済みであれば形質を引き継いでも子は苦しまないか引き継がず、親が誤魔化していたら引き継いで子が苦しむのだ。それは面白いようにそうなる。


今度、性欲について踏み込んだ記事を書くが、簡潔にいえば、性欲の在り方さえ、生き方(+先祖代々の業)の反映である。

それらを体得するために、自分の生まれ育った家族のことは、どこまでも深く掘り下げる必要がある。

父と母はどうして出会い家族になったのか、その偶然性や必然性。自分はどうやって生まれたのか(父と母のそのときの関係性、状態、その交尾の様子まで想像できれば最高)、そのさらに上の世代はどうだったか。父と母の抱えている問題とそれが自分にどう反映したか。先祖代々の歪みと課題と弱い部分はどこか。兄弟はどのように生まれたか。生まれるごとに家族がどう変化したか。

それらを10年以上かけて掘り下げていくのである。できれば10歳くらいから始めたほうがいい。

これらを分かっていると、自分自身の恋愛の在り方や性欲の在り方と、それらの因果関係のようなもの、その方向性や、未来がおぼろげながら見えてくるのである。

俺が「親自身が生き方として嘘をつかないこと」と書いた理由はこれで分かったかな?


そこまでやるとはっきりと気づくことがある。性欲にも色々あるが、良くないとされている性欲のほとんどの実態が、悪いものの発散であると。

身体とは面白いもので、子どもを作る行為は身体表面の「最も汚い部分」で行うようになっていることが、既にそれの暗示なのである。


より確実に子孫を残すために~~ だとか、科学者どもが今日もアホ面で尤もらしいことを言っているが、それならば指なんかを合わるだけで1秒で完了するようにすればいいだけのことだとなぜ思わない?なぜそんな簡単な発想さえできない?

なぜ男女にわかれ、なぜなかなかマッチングしない欲求の仕組みにして、なぜ何十分もかけて、成功確率もさして高くない、あんな滑稽な方法で、人体の汚い場所を使って、交尾をさせるんだと思う?

それらが指し示す答えは俺が書いていること以外にあるかい?


交尾とは、出生に関する「悪性」をどれだけ理解しているか?の確認行為でもあるわけだ。同時に、そこにこもっている自分と相手の悪性を、共同で確認する行為であり、その純度に応じて、悪性は解消される仕組みだ。

その結果に応じて、子がどうなるか決まるというわけだ。

悪性とは、社会における定義の悪とは違う。この世の摂理からみた悪のことだ。

交尾も出生も、それ単独で善でも悪でもない。その2つに極端に分けたがるのは、真実から逃げ、自分の在り方と語る客体を無関係に装うためのまやかしの二元論である。

真実は、「あなたの善悪」に応じて、「交尾と出生の善悪」も、「同じように決まる」 というシンプルなものである。

悪性を、交尾以前にどれだけ取り除けたか?(それは出会い方や相手そのものの因果も含む) それでも残っている悪性をどれだけ直視し、相手の協力も得ながら共に昇華できるか?

その末に、まっとうな性、まっとうな出生、まっとうな人間があり、それがまっとうな社会をつくる というわけだ。


休憩




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