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信長、秀吉、家康の出てこない歴史書――『対論 1968』(笠井潔、絓秀実、外山恒一)

上の写真は「鳥になった塩見議長と人民」

(以下、ネタバレあり)

一気に読んだ。とっても面白かった。
私も職業柄(どういう職業か?)、1968年本はかなり読んでいる方だが、外山恒一がまとめたこの1968年本は、これまでに読んだ、どの1968年本とも違った。
冒頭部分で外山は本書の語り手、笠井潔と絓秀実をこう紹介している。

「笠井氏は党派の、しかも指導者クラスの活動家だ。共産主義労働者党という、ベ平連にも大きな影響力を持っていた中堅党派の、学生組織の委員長だった」
「対して絓氏は、いわゆるノンセクト・ラジカル、特定の党派に属さない一匹狼的な個人過激派の立場を貫いた。とはいえ、絓氏が実際に身を置いていたのは、当時大いに脚光を浴びた東大や日大の全共闘ではなく、実質7名ほどで担われていたという学習院全共闘であり」

この二人の経歴をどう見たらいいのか。
1968年を「戦国時代」にたとえると、笠井氏は、北陸あたりの中堅どころの戦国大名の家老の息子、絓氏は、瀬戸内海の名もなき島を拠点とする村上水軍系列の海賊の一人といったところか。
ともあれ、外山はこの歴史的に見ればものすごくマイナーな存在である二人に歴史を語らせている。
そういう二人が語るのだから、この戦国物語に「京の都」は出てこない。本能寺も関ヶ原も川中島も、時代背景としてちょこっと顔を出すだけである。

そして、何よりも驚くのは、これまでの1968年本が「1968年の象徴」「1968年物語の主人公」「時代のヒーロー」として描いていた超有名な二人の名前が出てこないことだ。
これは、戦国時代を描いた歴史書に信長、秀吉、家康の名前が出てこないようなものである。
こんなことはこれまでなかった。いや、あってはならなかったのだ。

2017年に千葉県佐倉市の歴史博物館で開かれた「1968年」展は、内容的には「全共闘展」で、1968年の戦いの一方の主役である「三派全学連」は完全に抹殺されていた。歴博は三派全学連を「なかったもの」とすることで、「全共闘運動は市民運動だったんです。革命とか共産主義とは関係なかったんです」としていたのである。
私はこれを見て、「歴史修整主義だ」と思ったものだが、この本で外山がやった「時代のヒーロー」の抹殺はそれとは違う。
外山は1968年の戦いを「有象無象の戦い」と評することがあるが、超有名な二人を抹殺したのは、有象無象の戦いであることを強調するためで、二人を抹殺したことには、これまで語られてきた「二人の英雄の物語」こそが歴史修正主義だ、という批判が込められているのだろう。

外山のこのスタンスは正しいと思った。というのは、この本の語る歴史には、信長、秀吉、家康を中心にしたこれまでの歴史書にはない深みと広がりがあるからだ。
京の都にいるものには京の都が全てだが、北陸の家老の息子や村上水軍の海賊にとっては京の都も世界の一部でしかない。だから、より広い世界が見えたのだろう。
そんなわけで、ここで語られている歴史は、これまで語られてきた歴史とはまったく違う。
この本を読んで1968年の印象が変わった。


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