革命の天使:第一章 土壇場で
【作品あらすじ】
1903年、貧しい発明家のリチャード・アーノルドは実現不可能と思われていた飛行船の設計に成功するも、それを実現するための開発費がなくて窮地に陥っていた。そんな中、ある出会いがきっかけに、ロシア皇帝や世界中の独裁者を倒し、革命を成し遂げようとする秘密結社〈自由への同胞団〉に加わることになる。組織を率いる指導者の娘、〈天使〉ナターシャと恋に落ちたアーノルドは、自ら開発した飛行船を操り、ロシア皇帝との戦いに身を投じていくが……。
ジョージ・グリフィスが描く革命文学の最高傑作! 今、〈革命の天使〉に率いられた〈自由への同胞団〉の戦いが幕を開ける!
朗読版あります!
「勝ったぞ! これで飛べる! 僕は、ついに天空の支配者になったんだ!」
南ロンドンのボロアパートの最上階にある、快適さとは無縁の薄汚れた部屋の中で、陰気でやつれ、半ば飢え死にしそうな若い男が発したのは、じつに奇妙な言葉だった。
それでも、彼の声には確かに勝利の響きがあって、やせ細った頬は鮮やかな血色に覆われていた。それは彼自身が、その言葉が真実であるという信念を持っていることを伺わせた。その信念がどこまで正当化されたものであったのか、ともに見ていくことにしよう。
― ― ―
物語を最初から語るとすれば、リチャード・アーノルドは夢想家や熱狂者と呼ばれる類の人間であり、世間で成功を収めた後になってようやく天才や人類に恩恵をもたらす者と呼ばれるような人間だった。
その時、彼は二十六歳であり、それより六年近くも前から、心と体をただ一つのアイディアに捧げていた――それは空中航法という、今のところ未解決の問題である。
このアイディアは、彼が論理的に思考できるようになって以来、ずっと頭を悩ませてきた問題だった――最初、小中学校ではぼんやりと、大学に進学してからはよりはっきりと、数学や自然科学のすべてを目の当たりにするにあたって、ついにはその情熱にすべてを支配されてしまった。それは彼の人生から他のすべてを締め出してしまい、商業的に言うとするならば、彼をもっとも役に立たない社会単位――つまり、実用化できないアイディアをただ一つだけ持っているに過ぎない男にしてしまったのである。
彼は孤児であり、この世に血縁者はほとんどいなかった。友人は多かったが、そのほとんどは大学でできたものであり、彼らはアーノルドの前に輝かしい未来が開けていると考えていたので、知り合いになっておけば後で役に立つかもしれない人間としか見ていなかった。
しかし、結果が出ないままに時は流れていき、次第に友人たちは彼から離れていった。
それから、彼は自らの才能と財産を実現不可能な空想に費やしている、愛想だけはよい狂人と見なされるようになった。
この時期、もし彼が世間の常識から抜け出せずに実務的な仕事に徹していれば、それなりの収入を得ていたかもしれない。
大学で優秀な成績を収め、化学者としても開発者としても素晴らしい評価を得ていたので、大手の開発研究機関から好待遇のオファーがいくつもきていたのだ。しかし、友人たちが驚き呆れ果てたことに、彼はそのすべてを辞退した。
その理由は誰にもわからなかった。なぜなら、彼はまさに熱狂的とも呼ぶべき警戒心をもって自らの秘密を守っていたからだ。そのため、彼の辞退は単なる愚かさによるものとされ、彼はアイディアを実用化できないために失敗した天才たちの仲間入りを果たすことになった。
成人した時、彼は死んだ父親から託された数千ポンドを相続していた。もし、その二千ポンドがなければ、彼は自らの知識と才能を世間一般が思う通りに使わざるを得なかっただろうし、おそらくはそれで一財産を築いていたことだろう。しかしながら、それらの遺産は当分の間、生活費を稼ぐ必要から解放されるには充分なもので、そのお金がなくなるまでは、自分の人生の夢の実現に全力を尽くすことができるようになったのである。
もちろん、彼はその誘惑に抗えなかった――いや、一瞬たりとも他の道を考えることすらなかった。二千ポンドあれば何年かは持つし、誰かが説得しにくることがない完全な余暇を得て、その他の関心事からすべて解放され、必要な実験のための資金を確保することができる。
とはいえ、その資金が尽きるまで、あまり長くはないだろう。
そこで彼はお金を自分の好きな時に引き出せる銀行に預け、世間から身を引いて、自らの生涯の理想を実現することだけに集中することにした。
毎年、毎年、年が明けても成功は訪れなかった。彼は理論とはまったく異なる現実を目の当たりにし、百を超える細部で、図面では見たこともないような難題にぶつかることになった。
その一方、彼の資金は高価な実験に費やされたが、それも期待を膨らませるだけに過ぎず、次第に失望が訪れた。彼の創意工夫の奇跡によって生み出された素晴らしい機体は、細部において機能的には完璧だったが、ただ一つ――実用に耐えることができなかったのである。
この問題に取り組んできたすべての発明家と同様に、彼は常に重量と動力の比率という、致命的な課題に直面していることに気づいていた。
どのようなエンジンであっても、本体と機体を持ち上げる以上のことはできない。彼は他の発明家と同じように空飛ぶ玩具を繰り返し試作したが、蒸気船や電動ボートが水上を航行するように空中を飛行し、貨物や乗客を運べる飛行機械は、重量と動力という困難な問題を解決しない限り実現不可能だった。
資金を極限まで節約するために、彼は衣服も宿にもけちけちし、生活に最低限必要なもの以外のすべてを否定してきた。こうして彼は五年以上もの間、労苦と窮乏と希望に満ちた戦いを続けてきたのである。そして今、資金が底を尽き、たった一枚だけ残ったソブリン金貨さえも使い果たされそうになった時、ついに成功――現実的かつ具体的な設計で、実用可能な機体の制作に成功した瞬間――が訪れた。
それは来たるべき二十世紀において、十九世紀における蒸気機関のような大発見だった。
彼はついに真の動力を発見した。
二つの液化ガス――結合すると自然に爆発力を生む――は、時計仕掛けの脱進機によって微量ずつエンジンのシリンダーに注入され、爆発によって発生したガスの膨張力がピストンを駆動させた。飛行機関の本体と液化ガスが入ったシリンダー以外に重量はない。加熱炉、蒸気ボイラー、蓄電池、発電機など――蒸気や電気に関する重くてかさばる装置――は、すべて取り除かれ、彼はそれらのいずれよりも巨大な力を手にしたのである。
それは疑いようもないことだった。彼の震える指が脱進機構を動かした瞬間、長年の思いと苦心とを形にした模型は、翼を広げた鳥のように優雅に宙に舞い上がり、そして天井に激突しないためのワイヤーを強く引っ張りながら、舵の動きに従ってぐるぐると回転した。
その重量は実物大の飛行船にかかるであろう荷重に厳密に比例していた。それを増やすためには、エンジンの出力を上げ、浮力とプロペラを大きくすればいいのだ。
家を建てるよりも好条件でアパートを運よく借りられたこともあって、この部屋はかなり広かった。奥から表側まで続いていて、両端に窓がある。
屋外では強い風が吹いていた。アーノルドは自らの飛行船が静止した空気中で体勢を維持できると確信するや否や、すぐに両方の窓を開け放って、部屋の中に風が吹き抜けるようにした。そして飛行船を床に下ろし、舵を真っ直ぐにして、風を遮るように真っ向から配置した。
彼は苦悶の表情を浮かべ、それが床から浮き上がるのを注意深く観察した。模型はしばらく静止していたが、風を受けて速度を上げながら前進していく。
その時に彼は「勝ったぞ!」と意気揚々と叫んだのだった。
長年に渡る貧困と失望の日々は、無邪気にも無血征服を成し遂げた、その最高の瞬間に立ち消え、彼は世界と同様に広大な空の王国を自ら支配していることに気づいたのである。
それから模型を部屋の奥まで飛ばした後で、時計仕掛けを止めて動力を遮断し、床の上に静かに降ろした。
その時、あらゆる反応が遅れてやってきた。しばらくの間、彼は押し黙ったまま自らの人生の集大成をじっと眺めていたが、やがて踵を返し、部屋の隅の小さく粗末なベッドに身を投げ、溢れんばかりの涙を流したのである。
自らの運命に打ち勝ったとはいえ、遅すぎたのではないだろうか? 彼は自分の発明が持っている無限の可能性に気づいていた――が、それらはまだ実現していないのだ。
それを実現するためには何千ポンドもの資金が必要だが、彼の手もとには半クラウン銀貨と銅貨が数枚あるだけなのだ。しかも、この金さえも自分のものではない。すでに家賃を一週間分も滞納していた上に、翌日にはさらに別の支払いを控えていた。これらは総額十二シリングで、もし返済が滞れば路頭に迷うことになる。
自らの力でなんとかベッドから抜け出すと、彼は絶望の表情で、がらんとしたみすぼらしい部屋の中を見回した。いや、そこに質に入れたり売ったりできるものは何もなかった。売れるものはすべて、絶望に立ち向かう希望の闘いを続けるために、すでに消えてしまっていた。
この部屋の家具を構成するのはベッドと洗面台、簡素なディール・テーブル、そして一脚の椅子は、そもそも彼のものではなかった。小さな大工用の作業台、使い古した工具に実験器具の数々、擦り切れた十二冊の本――そして背後にある衣服、外出時に大切な模型をしまっておくための無地の海水箱を除けば、現在の彼の所有物は世界でたったこれだけなのだ。
彼の模型もあった! ……いや、それにしたところで売ることはできない。せいぜい工夫を凝らした玩具程度の値段にしかならない上に、二つのガスの秘密がなければ、なんの役にも立たないのである。
しかしながら、それにはなんらかの価値があるのではないか? その通りだが、それも仮に彼が飢え死にする前に、それが金になることを誰かに説得できたならばの話だ。それに加えて、この海水箱と貴重な中身は、翌日には家賃のために差し押さえられるかもしれない。もし、そうなってしまうと――
「ああ、神様お助けを! どうすればいいんだろう?」
その言葉は肉体的な苦痛の叫びのように口から洩れ出し、すすり泣きによって打ち止めとなった。その応答は、部屋の沈黙と、開け放たれた窓から微かに聞こえてくる下界の街の雑踏だけである。
彼は空腹で弱っており、興奮したことで気分が悪くなっていた。何日もパンとチーズだけで生活していたが、その日は朝食でパンの皮を食べた以外、なにも口にしていなかった。神経も同様に、最後の試練に勝利した緊張のためにくたくたに疲れ切っており、頭がふらついていた。
しかし、彼は必死の努力の末に立ち直った。長い苦闘の日々の中で彼を支え続けてきた英雄的な決意に、再び助けられたのである。
彼は立ち上がって、水差しからひび割れたカップに水を注いで飲んだ。これでひとまず気分が回復したので、残りを頭から被った。それで神経が落ち着き、脳がすっきりした。それから床から模型を取って、海水箱のいつもの場所に優しく愛情を込めて寝かせつけ、鍵をかけて、その上に座ってこの状況をよくよく考えだした。
十分後、彼はすっと立ち上がり、声を上げてこう言った――
「仕方がない。空腹ではなにも手につかない。もしこの世で最後の食事になるなら、もう一度だけ美味しいものを食べに外に出よう。そうすればなにか考えが浮かぶかもしれない」
そう言って彼は帽子を取った。チョッキがないのを隠すために、みすぼらしいベルベットのコートのボタンを留めて、それから部屋を出て、ドアの後ろに鍵をかけた。五分ほど歩くと、ブラックフライアーズ・ロードに出た。川で曲がって橋を渡ると、ちょうど反対方向では街の労働者たちが家路につくために橋を渡っているところだった。
ラドゲート・サーカスで安い食堂に入ると、牛肉の皿とパンとバター、そして一パイントのコーヒーという豪勢な食事を摂った。
食事をしていると、新聞配達の少年がやってきて、座っているテーブルの上にエコー紙を置いていった。機械的にそれを手に取って、コラム欄に無造作に目を走らせる。彼は夕刊紙のたわごとに興味を持つような性格ではなかったが、『外国ニュース』という見出しの記事で、かつての知り合いの名前が目に留まったので、その段落を読み始めることにした。
その内容は次のようなものだった――
《ロシア鉄道内での凶行 昨夜、ベルリン‐サンクトペテルブルク間の特急列車がロシア国境を越えて最初の停車駅であるカウナスに停車した時、この数ヶ月に渡って連結されていた豪華車両の喫煙室内で衝撃的な事件が起きていたことが発覚した。
パリへの極秘任務の帰途にあったと思われる帝国警察のドルノビッチ大佐が、心臓を刺され、完全に死亡している状態で発見されたのである。額の中央にはT字型の短い直線が二本走っており、それが骨まで達していた。少し前にドルノビッチ大佐が無政府主義者の摘発に貢献していたこともあって、この陰謀に関連して、様々な社会的地位にある五十人以上の男女がシベリア送りとなった。
この事件は全体が深い謎に包まれていた。警察の唯一の手がかりは、被害者の額に刻まれた十字架が、この犯行が無政府主義者の仕業ではなく、『テロリスト』と呼ばれる謎に包まれた知られざる集団によるものであることを示していることだが、彼らがどうやって手を下したのかは明らかににされていない。列車が全速力で走っている間に、暗殺者がどのような方法を用いて気づかれずに車両に出入りしたかは、明らかに解決できない謎である。
当時、被害者と乗組員を除いて車内で眠っていなかったのは、ロシア軍の別の将校と、休暇が終わり、二年前に任命された英国大使館付き秘書官の職務を再開するためにサンクトペテルブルクに出張していたアランメール卿だけだった。 》
「これは……僕の学生時代にトリニティ・カレッジにいたアランメール卿、いや、トレメイン子爵に違いない。あの頃、僕たちはとても仲いい友達だったな。今も僕のことを覚えていて、この地獄みたいな状況から抜け出すために十ポンド札を貸してくれるだろうか? あいつは僕がこれまでに出会った数少ない友達の中でも、本当に心の優しい男の一人だったからな……」
アーノルドは新聞を置きながら呟いた。
「もし彼がロンドンにいるなら、勇気を出して助けを求めにいくところだけど……でも、彼がロンドンにいないんじゃ、それを願っても無駄なことだな。……はあ、それじゃあ、この一シリング分の食事と飲み物で元気を取り戻したところで、散財を終わらせるとするか。エンバンクメントでパイプでも呑みながら静かに考えよう」
――つづく
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?