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目の力を抜いて、見るものすべての解像度を下げてみよう。

鮮明に目に見えなくとも、わかることがたくさんあると思う。

1.あえて、解像度の低い写真で魅せる


解像度とはなんでしょう。








web辞書によると
 解像度(かいぞうど)とは、かんたんに言えば「表示の細かさ」の度合いのこと。どのくらい細部まで描き出されているか。解像の度合い。とりわけ、ディスプレイやデジタル画像(ビットマップ画像)、印刷物などの、「画素の密度」を指す意味で用いられる。「dpi」や「ppi」を単位として数値で示されることが多い。

らしいです。

そういえば、人間の目よりも画素数の高いセンサーが開発されたというニュースを聞いたことがある。つまり、人の目よりも鮮明に何かを写し捉えているということ。

人の自覚できる領域を超えているとは、どういうことなのか。
大学の講義でよく聞いたマーシャル・マクルーハンの「メディアとは、メッセージであり、人間感覚の拡張」であるという見解が、改めて腑に落ちた瞬間でした。

拡張された感覚によって、私達は生まれ持った身体の力では見ることのできなかった存在に触れ、新たに自覚した存在との関係性の中で自己を形成する。これは自分がデジタル系に弱い上での感想だが、個人的には身体感覚を超えた先で得る情報を現実だと思えない。それは本当に存在しているのか、幻なのではないかと思うのだ。

「 情報量が多く、鮮明である=現実的である 」という一般的な感覚が失われた瞬間です。

対象が鮮明すぎるあまりに、かえって疑わしく思ってしまう。それを現実だと受け入れられない違和感がありました。

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最近、自分の中で流行っている表現方法のは「ぼかして撮影」と「写真の再編集」です。

あえて撮影時からぼかして撮影をすることで、被写体の姿を不透明にする。輪郭だけを残す。
そして、トレーミング(切り取り)をすることで、あえて情報量を削る。

最初の頃は、これは表現として大丈夫なのか。。?そもそも写真と言えるのだろうか。という違和感が多くありましたが、目が慣れてくるうちに、自分の頭の中で描いている世界観が表現されていて、どんな鮮明な写真よりも自分のモノの見方が写し出され、個人的にはより現実味の増した写真だなと思っています。

「自分の自覚している想像の世界=抽象的に表現した写真」という図式が成立し、私にとっての現実を見せてくれる。

また、誰かにとってはフィクションかもしれないけど、写真の鑑賞者が物語を想像できる空きのある表現だなと思ってなお心地よいのです。空きがあるから、そこに誰かを受け入れる余裕も生まれる気がします。


2.暮らしの解像度を下げてみること

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このようにお酒に酔っている感じといいますか、フワフワしている感覚が好きなやつなので、結構、弱点もあって具体性と計画性に欠けているところもあるんです。

時々、物事を進める上で、計画性がないのかなと、具体性がないのかなと不安を感じるときがありますが、しかし、不安を感じているうちはまだ良いバランスを取れているのかもしれないなと前向きに捉えようとしています。

実は制作における不透明性、抽象性の美学みたいなところは、生き方にも関連する部分が多いと感じています。

比べるにもわずか数年前ですが、昔に比べてものすごい速さで情報に触れ、何かの理屈、構造など知った気になるのがやりやすい世の中になったなと、情報革新に驚かされながらも、これだけ何も明らかになっていく雰囲気の中で、なぜ、先々のことが見えない人も中にはいるのだろうか。と違和感がありました。自分自身もわかっているようで、実は何もわかっていない無知さからくる不安を感じるときがあります。

その違和感に対して、明らかになっているようで、そのことは現実ではない場合もある。自分が現実とは受け止められない。という気づきに至りました。そもそも現実とは、「ある」ものではなく自分が自覚している世界が「現実」なのだ。

だから、ほんの僅か数%でも良いから、見ている物事すべて解像度を下げてみてみようと。
「抽象=理想 」、「具体=現実」という固定概念を壊した時にはじめて物事の本質が見えてくるような気がした。という気づきでした。


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