「気づいちゃったこと」の扱い方
いつか忘れたけど、「気づいたこと全部伝えれば良いわけじゃない」と気づいた瞬間があった。
もともとの私は、気づいたことは伝える方がいいと思っていた。逆に気づいているのに伝えないのは、何かを見殺しにするようで、とても卑怯で冷酷なことだと思っていた。
ただ実際に「伝えた」結果は、自分の予想とはちょっと違っていた。
恥を忍んで言うが「なるほど!その視点は無かったわ!ありがと!」ってなるかなーと思ってたが、案外ならなかった笑。
実際は「はぁ。そうね〜」くらいの感じが近かった。
予想外の結果を何度か繰り返すうちに、何がいけないのか考えるようになった。
その結果、自分の気づきは「気づいてしまったもの」であり、「気づいた自分自身が気づきに対しての責任やモチベーションが追いついてない」ということに気づいた。
私が「人よりも気づく人」なのは、しっかりしてるとか、周りに貢献しようとしているとか、優しい、とかそういう要素の表れ、というよりは「ただの体質」に近いものだ。
感覚としては「人が聞こえない小さな音も、なんか耳に入っちゃうんですよね~」という感じに近い。
「なんか気づいちゃう」のだ。
もちろん、自分にとって大事なことだからより繊細に気づく、という側面もあるが、それが「自分の気づき」を「無視できないもの」と過剰に価値付けしてしまう原因にもなっている。
きっと伝えられた側からしたら、「悪いけどあんまりピンと来ないし、言った張本人のあなたがどうしたいか分からないとこっちも困っちゃうよ」、そんな感覚なんじゃないかな、と思う。
自分はただ相手を混乱させていたのかもしれない。
そして相手だけでなく、自分自身も混乱させていたな、と思う。
今までの私は100個気づいてしまったら、100個の「やるべきこと」に自動的に変換していた。
もちろん100個もできるわけない。1つ1つやるべきことを消化するうちにも、また気づいてしまい、「やるべきこと」だけが増えていく。
以前の私は、「やるべきことが100個あるなら、100個こなせる自分になろう!」と思っていたが、今は「100個の気づきから、やるべきことを取捨選択できる自分になろう!」と思っている。
そのためには、取捨選択の基準、つまり自分がどうなりたいかを明確にすることが大事だろう。
「どうなりたいか」を明確にしていくためには、結局行動だと思うし、結論、
「できないことより、できたことに目を向けて、とにかく焦らず1個1個着実にやっていこう!!!」に落ち着く。
結局、私の悩みは99%「行動で解決」ですよね…!
「悩んでても意味ない」という言葉があって、その言葉を受け取る度に「悩むって良くないことなのか」と受け取っていたが、本当に伝えたいことは「悩むことに時間を使ってしまうと、行動する時間が少なくなるからもったいないよ」ということなんだろうなと、最近やっと気づく。
悩むことは悪くない。意識すべきは行動と思考、あるいはアウトプットとインプットのバランスなんだと思う。もっというと、行動あってこその思考で、アウトプットあってこそのインプットという位置付けだと心地良いのかも。
私にとっては、noteを書くこともアウトプットの1つで、
100個の気づきのうちの1つと向き合い、処理する行為そのものだなと思う。
ちなみに書いてる間も、「あれもこれも」といろいろ浮かんだけど、そこから選んだことだけを書いている。
8月も少しずつ行動していきます。
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