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古事記の暗号はインドネシア語?また天皇家にはインドネシアの血が流れている?戦時中、インドネシア語の暗号を使った近代の天皇とは?!

日本最古の歴史書と言われている古事記。以前、この古事記をインドネシア語で、解読を試みている研究者に会ったことがあります。
奈良時代に書かれた古事記ですが、なぜかインドネシア語で読むことができるそうです。そして古事記をインドネシア語で解読すると、今までとは違う古代の歴史が記されていると教えてくれました。
ただ古事記をつくった太安万侶(おおのやすまろ)がわざと難しく書いたようで、古事記をインドネシア語に翻訳した文書は、中身がバラバラになった内容となっているとか?!
その方いわく、「古事記をインドネシア語に翻訳し、それを日本語に直して読む作業は、さながら、全体図の分からないジグゾーパズルを組み立てるようなもの。理解が難しく解読が進まない」と言っていました。

当時、私は頭がかたくて、インドネシア語で古事記が書かれている、と聞いても納得できませんでした。でもいろいろ聞くうち、奈良時代にインドネシア出身の豪族がいたらしいこと、そしてインドネシア語から、日本語になった単語がいろいろあることがわかりました。
そのことについて書いていきますね。


【インドネシアと古代日本の関係性】

①インドネシアから渡来した?天皇家に影響力を持った大豪族、葛城氏

奈良時代、葛城氏は大豪族として知られており、大化の改新を行った中大兄皇子の幼少時の名前が「葛城(かつらぎ)」皇子
中大兄皇子は葛城氏出身の皇子だったようです。ちなみに中大兄皇子は、成人後、天智天皇となります。
当時、葛城氏は大きな力を持ち、娘を天皇家に嫁がせることも度々ありました。

また藤原氏が名門になるきっかけも葛城氏だったようです。
藤原不比等の娘で文武天皇に嫁いだ宮子は、母が葛城氏の出です。ですが当時、藤原氏は名門でなく、ただの豪族。
不比等の娘の宮子は、文武天皇に嫁ぎましたが、藤原氏の身分が高くないため、当時の身分は皇后ではなくただの側室でした。
しかし宮子が生んだ男皇子は、次の天皇になります。側室が生んだ皇子が天皇になるのは異例のこと。
それはこの葛城氏の血筋が大きかったのからかもしれません。
また、藤原氏の血を引く皇子が聖武天皇になってから、藤原氏は天皇の外戚として、スターダムにのしあがっていきます。

その宮子の母は葛城氏出身ですが、その葛城氏、実はインドネシア出身の豪族だそうです。葛城(かつらぎ)をインドネシア語に直すと「kastil」で「城」を意味します
実際に葛城氏は強力な軍備を持っていました。また葛城氏は優れた金属加工の技術を持ち、そこから富を得ています。
奈良時代、金属加工が発達していきますが、特に発展したのが鉄の加工! 
縄文時代は銅鐸に代表される銅の文化でした。銅はやわらかく、武器には向きません。
しかし固い鉄は優れた武器となり、奈良時代に発達した鉄の加工技術は、平安時代を経て、鋭い切れ味を持つ日本刀として完成されます。
つまり、金属加工が得意な葛城氏が、鉄を加工した武器を作って売り、そこから富を得て、ヤマト王権で権力を持つようになった
そしてその葛城氏こそが「インドネシア出身の豪族」だというのが、古事記をインドネシア語で解読している方の自説でした。


②才知あふれる美貌の歌人、額田女王の出自は貴人との混血?

また、美貌あふれる女流歌人であった額田女王(ぬかたのひめみこ)。
中大兄皇子と大海人皇子の兄弟が、この美貌の歌人に恋をし、争ったことは有名です。インドネシア語で「ヌカタ」とは、貴人と、そうではない人との間に生まれた混血を意味します。つまり額田女王は「身分の高い皇族と、そうではない人」との間で生まれた姫君だったのかもしれません。



〈日本語になったインドネシア語のまとめ〉

①奈良県の語源は、インドネシア語で「国」をあらわす「ナラ(Negra)」?

ほかに奈良県ですが、奈良(ナラ)という言葉もインドネシア由来っぽいです。インドネシア語で、「国(くに)をあらわす、Negara」。
「Negara(ナァグラ)⇒ナッラ⇒ナラ」、になっていった可能性があります。古代、奈良県は葛城氏の本拠地。インドネシアから渡来したと言われる葛城氏。今も奈良県には、葛城郡や葛城山という地名があります。

②インドネシア語で奴隷を意味するブラク(部落〉

ほかにも日本語になったインドネシア語があります。例えば部落。
実は部落の歴史は古く、弥生時代くらいにできたという説も・・。
インドネシア語では、奴隷のことを「budak(ブラク)」と言います。
部落はあまり良い意味ではありませんが、奴隷が部落と関わっていたとしたら、時の権力者たちが、部落という差別制度をつくったのも納得できるような気がします。

③ベンテンは弁天(弁財天)ではなく、インドネシア語では「砦」をさす

ほかにベンテンというインドネシア語。ベンテンと言えば、日本で弁天(べんてん)こと弁財天の女神を意味しますが、インドネシア語でベンテン(benteng)は「砦」をあらわします。

少し前に群馬県の野反湖に行きました。野反湖は自然豊かな湖。現在は人が住んでいませんが、古代は住んでいたらしく、周辺に古い道祖神が点在しています。また野反湖周辺はハイキングコースになっており、野反湖近くの小高い山がベンテンという地名でした。
そのベンテン山は、ちょうど野反湖を攻めるのに見晴らしの良い場所。
もしかして古代、インドネシア人が野反湖に来て、ここに住んでいた人たちを攻撃するために、その山に砦(とりで)をつくり、それでこの山はベンテンという地名になったのかな?と想像してしまいました。


《天皇家にはインドネシアの血が流れている?戦時中、日本軍の暗号にインドネシア語を使った近代の天皇とは?!》


ほかにもいろいろあるのですが、実は、先の大戦中、当時の天皇が軍の暗号にインドネシア語を使っていたそうです。
ただその天皇の名前を忘れてしまいました・・。
明治時代以降の天皇であったことは覚えているのですが、何しろ、インドネシア語で古事記を解読した歴史の内容を他にもいろいろ聞いていたので、頭の中がごちゃ混ぜに・・。あの頃は本当に頭がカタくて、その方が話す古代史をうさんくさいと思ってしまったのも良くなかったかなと思います。

まとめると、奈良時代、インドネシアの血をひく葛城氏の姫が大王家に嫁ぎ、生まれた天皇が「天智天皇」や「聖武天皇」といった歴史上の人物。
その葛城氏の血統は代々の天皇に受け継がれ、実際に先の大戦中、明治以降の天皇のいずれかが、日本軍の機密の暗号をインドネシア語で送ったということになります。

現在、インドネシア語で古事記を翻訳していた方は亡くなり、ライフワークで研究されてたので、解読した内容をまとめることもなく、特に誰に話すこともなく、この世を去られました。なのでどんなことがわかったのか、もう聞くことができません。

実際のところ、インドネシア人が日本に渡来したことを証明する、ちゃんとした証拠はないのですが、イギリスのオックスフォード大学の歴史教授は「日本人はヒッタイトのDNAを持っている」と断言しています。
なので私は、ヒッタイト民族が日本に渡来したならば、インドネシアの民族も来ていて不思議じゃないかな?と思います。
今から1300年以上の奈良時代は、現代の私たちが思う以上に、激動の時代だったのかもしれません。



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