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【コラム】「ゾンビ映画で納涼を—生きる屍の存在論」

 お盆ともなれば、此岸と彼岸、こちらとあちらの、普段おいそれとは行き来できない境界が少しぼやけて、二つの世界が交わるという。もっとも、こちらに来てもらってありがたいどころか、うらめしや、とかえってあちらに連れていかれそうになることもしばしばで、残暑厳しいこの折に、納涼を兼ねてと怪談企画が増えるのも道理である。とはいえ、江戸前のお岩やお菊では粟も立たなくなってか、1990年代の後半あたりから貞子や伽椰子といった新顔がもてはやされるようになった。近頃に至っては「生きる屍」ことゾンビ御一行をわざわざ海外から呼び寄せて、日本各地での暑気払い、さらには10月のハロウィーンにまで駆り出す始末。風情も何もあったものではない。  
 いったい何の話かといえば、もちろん(とりあえずは)映画の、とりわけゾンビの話である。
 いま私は「生ける屍(リビング・デッド)」、といったが、よく知られたこのゾンビの異名が気になったことはないだろうか。加藤幹郎、あるいはアメリカのスティーヴン・シャヴィロやS・L・ラウロとK・エンブリーといった研究者たちが指摘するのもそのあたりのことだ。つまり、ゾンビがその身に引き寄せるこのような言回しは形容矛盾に他ならないのである。いうまでもなく、生と死はもっともかけ離れた状態だ。対極にある二つが一つの身体に同居するようなことがあっていいはずがない。
 ところが映画という視覚装置は、この言葉が孕む矛盾と距離そのものをいとも簡単に具現化(エンボディメント)し、さらには動かしてみせる。いや、加藤が『映画ジャンル論』(文遊社、2016年)でいうように、そもそも静止画像としてあった写真を動画像として見せるのが映画であるならば、「言葉の矛盾と墓石を押して」立ち上がる死体、ゾンビこそが真の映画的主体ではあるまいか。スクリーンの上で、それは確かに生と死の非決定状態を保ったまま歩いている。そんなものいるはずがない、そう強がってみせても、映画のゾンビを目の当たりにして、私たちは色を失い、怖気を振るい、ついに目を背ける。
 そのような「歩く屍(ウォーキング・デッド)」としてのゾンビを最初に登場させたのは1932年のアメリカ映画『恐怖城』(White Zombies)だ。この独立プロダクション系映画は、アメリカ人ウィリアム・シーブルックによって1929年に出版されハイチのブードゥー信仰とゾンビを紹介したルポルタージュ、『魔法の島』(Magic Island)に依るところ大であった。かの地をセットで再現し、またベラ・ルゴシをゾンビ・マスターとして主演させ、予想外の人気を博したが、ここでゾンビは、いかにもドラキュラ然とした――実際のブードゥーの呪術師とは程遠い――城主ルゴシに眼力で操られる従順な奴隷(仮死状態の人間)に過ぎなかった。
 ゾンビ映画は数あれど、先の異名を世界規模で定着させたのは、やはり、ジョージ・A・ロメロが1968年に監督したこれまた独立プロダクション系映画、『ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド』(Night of the Living Dead)であろう。ロメロはまず当作で舞台を自身の地元ピッツバーグに移し――ある程度の設定を継承してはいるものの――ハイチとブードゥー教からコンテクストを切り離した。劇中ではゾンビという呼称も用いられず、「生ける屍」と化すのは専ら同時代の社会に生きるアメリカ人だ。さらに重要なことに、食屍鬼(グール)とも呼ばれる「生ける屍」たちは肉食の欲望に駆られて飽くことなく人間を襲い、しかもその際、ゾンビ状態を相手に感染させるようになった。増殖的消費を止めない私たち現代人のメタファーともなる、ポスト=モダン・ゾンビの誕生である。
 今やゾンビは群れをなしてこちらへと歩いてくる(最近は走ってくるものもいる)。それはスクリーン越しに、生きながらにして肉を食われる苦痛、さらには禁じられた消費の愉悦を、身体的に喚起する。それだけではない。「生ける屍」たちは、非決定状態にある身体のあり様それ自体を感染させようとする。脅かされているのは私たちの存在(プレザンス)なのだ。ただ「表面」に、かつて人間だったときの痕跡を――まるで中身のないCGIのように――とどめているにすぎないゾンビを前に、生と死のみならず、男と女も、老いも若きも、主体と客体も、私とあなたも、人間とゾンビも、そして此岸と彼岸も、境界をなくそうとしている。
 風情ももはやないけれど、夏休みにゾンビ映画を見て涼をとれるものならそれに越したことはない。いや、どうせなら『映画的身体』(The Cinematic Body, 1993)でロメロの一連のゾンビ映画を例にとりながらマゾヒスティックな映画的快楽(シネマティック・エンジョイメント)の可能性を追求した先のシャヴィロにならって、「生ける屍」に襲われるという圧倒的受動体験へ向けて、自分の身体を、目だけでなく全身、開いてみようか。所詮、映画のなかの話である。映画が終われば、それらも歩みを止めるはずだ。
 とはいうものの、我らがゾンビにあっては、銀幕のあちらもこちらも、とうに意味をなしていないのかもしれないのだが…。

※本稿はかつてネット上に存在した『学習院TIMES』へ2017年8月に寄稿したものです。

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