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「雪を抱く」(大白小蟹短編集より): 自分の体を我がものにしたいよね

 大白小蟹さんの短編集「うみべのストーブ」を近所の本屋で見かけて購入した。表題作をオンラインで試し読みしたことを思い出して、シンプルで綺麗な絵柄、美しいセリフ回しの伴う登場人物の独白、この作家さんの本なら間違いない…!と確信してレジへ直行した。カバーの手触りも印刷もすごくいいので、ぜひとも紙の本として買っておきたい一冊。雪景色を背景にした作品が多く収録されており、今の季節にぴったりの作品集。私の住む地域では、今年は例年よりかなり降雪が少なく、寂しい思いをしていたので読んでいてちょっと嬉しくなった。

 中でもかなり好きになったのが、自分の妊娠を知った主人公の心情を描く「雪を抱く」という短編。夫の「もう一人の身体じゃないんだから…」という気遣いの言葉をはじめに、主人公は自分の身体のありようについて考え始める。

わたしの身体が わたし ひとり だけのもの だったことなど
一度でも あった だろうか

うみべのストーブ 大白小蟹短編集, p. 122, 2022.

 うーん、この共感性の高いテーマ!そしてそれを淡々と、ごく普通の、でもどこか非日常の出来事として美しく描写するストーリー!最高!!と唸りながら読んだ。「もう一人の身体じゃないんだから」って、もはや形式化した典型的な気遣いの文句で、別に他者の身体を支配しようなんて考えはこれっぽっちもない。もし私が夫の立場だったら、「パートナーを気遣う夫」の役割として、同じ言葉が口から出ていたんじゃないかと思う。しかし無意識化された決まり文句こそ、その言動を形作ってきた時代と価値観をうまく反映しているわけで、そこを切り口にして意識化していく仕事には大きい意義がある。
 自分の経験を振り返ってみると、なんだか私はかなり自分の体を我が物にして生きてきたように思う。家族にも他人にも反発しまくりのトゲトゲした子供だったので、何を言われようとまともに聞いてなかったか、我が強すぎて受け入れなかったのだろう。というか、性別を含む身体が自分のアイデンティティを占めていると考えることを避けていたのかもしれない。小学生の頃、同年代の男の子に「女のくせに勉強ができるなんておかしい」と言われ、「じゃあ男のくせに私より勉強も運動もできないあんたって何?」と言い返して半泣きにさせたことがあった。自分では間違っていると確信している相手の理屈に則って泣くまで言い返すのは、かなり性格の悪い行いである。なんて心無い子供だったのだろう…。
 今思い返すと、この頃の自分は、無意識に女性になることを避けていたところがある。幼い自分にとって、女性になるということは、「勉強ができるなんておかしい」存在になることを受け入れることだったのかもしれない。もっとも、こういう環境から与えられた価値観はだいたい、成長に伴う論理性の向上や広い世界のインプットによって薄まっていくものなので、大人としての自我には今や影響力を失っているけれど。一方で、これができたのは広い価値観に触れることができる環境や時代に恵まれたことが大きいので、そうでない場合には「女性でなくなること」を選ぶ人たちがいるのも理解できる。最近読んだCheon Myeong-kwanの"Whale" (Chi-Young Kim 翻訳)では、ビジネスパーソンとして成功した先に「男性になった」元女性の話が出てくる。

 主人公のひとりであるGeumbokは、若い頃は男性を無条件に陶酔させるような"色香"でもって何人もの男たちを虜にし、時に利用し、早熟な商才によって一流のビジネスパーソンになる。山奥の小さな村から飛び出した Geumbokが成り上がっていく様は痛快だが、彼女に魅入られた男たちの行く末は悲惨なものばかりである。興味深いのは、会社と資産を築き上げた彼女が、ある時から美しい少女を愛人として囲うようになり、ついには男性器(らしきもの)までを持った「男」になる、というところ。 これを境に、Geumbokはこれまで利用してきた男たちの亡霊を見るようになり、これまでの男たちと同様に魅力的な女性に入れ込み、破滅の道を辿ることになる。
 "Whale"は複数の時代の、複数の女性たちを主人公に据えた小説だが、その一方で、苦しみ死にゆく男たちの姿が印象的な作品とも感じた。力強く生き抜く女性たちを主題に置きつつも、軽んじられ、あまつさえジョークにされる男性の身体や、それが無意識に、当たり前に行われることの残酷さについては、現代の私たちだって見えてないんじゃないの?という問題を突きつけられるようなメタ的な構造があった。まさにこういうのが読みたいのです。
 "Whale"は、2023年の国際ブッカー賞でショートリスト入り。英語翻訳を担当したChi-Young Kimさんは韓国文学の翻訳で有名な方。文章のリズムやユーモアなど、韓国文学の雰囲気がダイレクトに伝わる翻訳でとても良かったのでおすすめ。そういえば、物語に登場するクジラ型の映画館をモチーフにした表紙の版もあるみたいです。


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