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箱庭を覗いた、あるいは覗かさせられた先で見えた景色――VSSW夢追翔1st Album『絵空事に生きる』に寄せて

絵空事(えそらごと)
1.絵画で、実際にないようなものを描いたり、誇張して描いたりすること。
2.現実にないこと。でたらめ。空理空論。

https://www.weblio.jp/content/絵空事

 嘘やでたらめは、すべて罪だろうか。
 現実にはあり得ないことを、そこにあるように語ることは過ちだろうか。
 現実にはなれない姿であろうとすることは、指を差して笑われるようなものなのだろうか。
 決してそんなことはないと思わせてくれるのは、いつだって夢を抱き続ける人間の背中だ。

 2023/6/28。
 バーチャルシンガーソングライター(以下VSSW)夢追翔さんが、デビューから数えて五回目の誕生日を迎えられました。
 先日、彼の紡ぐ音楽について自分が感じていることを纏めた(https://note.com/jolly_elk817/n/nb17bf77c9d1c?from=notic )のですが、その少し後に楽曲製作期間として配信頻度を落とすという報告があり、これは次のシングル、ないしはアルバムが近日発表されるということとイコールと考え再びまた筆を執りました。
 順番は前後しますが、今回は1stアルバムについて細々と解釈を纏めながら、現在の”夢追翔”というアーティストの活動から自分が何を感じたのか、考えたのか、記録の一環として残したいと思います。
 前回同様、できるだけ”アーティストの夢追翔”、”VSSW夢追翔”の活動のみに絞って言及しようと思ったので、youtubeでの配信活動(曲について言及しているものも含む)、メンバーシップ・ファンクラブなどの限定コンテンツ(会報を含む)から得られる情報は可能な限り全てシャットアウトし、”歌詞”、”音”、”曲調”、”MV”のみを根拠に楽曲についての解釈を書いています。それらのコンテンツに触れた瞬間に自分が感じた印象などは刷り込まれている可能性があり、解釈に一部影響している可能性を完全に排除ができていないことについてはご了承ください。

作風と曲調について

 前回と重複する内容をつらつらと書くのも不毛なので、下記の紹介をもとに個人の見解を簡単にまとめておきます。

”バーチャルライバーグループ「にじさんじ」に所属するバーチャルシンガーソングライター。夢は、自身の楽曲を通じて、バーチャルの垣根を超えた一人のアーティストとして大勢の人に認められること。 そのための活動として、オリジナル楽曲を映像と共に動画サイトなどへ投稿している。目を背けたくなるような感情の後ろ暗さに寄り添う作風が特徴。”

アーティスト情報 https://www.tunecore.co.jp/artists/Kakeru-Yumeoi

・発信する”音楽”の特徴
 多様な音楽ジャンルに乗せて、自分が届けたい生き様や言葉を綴る。アルバム単位で聴くと、ジャンルとしては物語音楽と称するのが最も近い。
・曲調
 ボカロ世代の作曲家、DTM特有の特徴ともとれる物理的に演奏することを想定していない自由なコード進行やリズムが目立つ。音作りや構成は各曲ごとにインスパイア先が存在しており、そこにフックとなる独自のメロディと裏旋律、鍵盤など多様な音色を載せていく作曲スタイル。
・作風
 前向きで明るい内容であることはほぼなく、鬱屈した雰囲気を纏ったテーマであることが多い。歌詞の言葉選びはほとんど飾らないストレートなものである一方で、強い言葉を使っている場合はほとんどの確率でその逆のことが最も伝えたい主題であるように見える、言ってしまえば捻くれた内容

 上記の私見を前提に、1st prelude EPおよび1stアルバムについて考えていきます。

1stアルバム全体の構成について

絵空事=空想の世界、ありもしないうそ、本来の姿とかけ離れたもの。滑稽。 そんな作り物の世界だとしても、生きている。ここにいる。 バーチャルシンガーソングライター夢追翔としての生き様を詰め込んだ最初のフルアルバム。

https://linkco.re/bQ4fECN6?lang=ja

 彼自身が書いたとされるアルバムの紹介をそのまま言葉通り汲み取れば、1stアルバムは”夢追翔”としての生き様を描いた曲が収録されているはずです。
 後述しますが、実際に収録されている曲は基本的にはその通りと言って差し支えない、いわゆるキャラクターソングめいた、私小説のようなものが主体です。
 ただ、そのうち数曲は彼ではないと取れるような他者の生き様を描いた、異色なものも含まれています。それらはばらばらに配置されてはおらず、続けて聴くよう提示されていることから、他者の生き様を通して彼自身の中に存在する欲求や思想が描かれているのかもしれません。

 また、アルバム全体の構成として、単純にリリース順に収録されているわけではない、というところにも意図があるように思えます。このアルバムのために書き下ろされた曲は三曲で、それ以外は1st preludeEPにも収録されており、そちらではリリース順に収録されていたわけですから、追加楽曲を踏まえて再編された曲順に意味がないとは言えない……と思うのは、たぶん考えたがる人間のサガかもしれません。
 楽曲それぞれについて紐解きながらその意図も考えられると面白そうだなと思っていますが、どこまで触れられるでしょうか。

楽曲についてくわしく考える

1.弱気に寄り添う(Align With The Weak)

「自分は弱くてダメだ、すぐに嫌な方向に物事を考えてしまう、 こんな自分に価値なんて無い、そう思ってる人が世の中には沢山いるけど、 そんな気持ちに寄り添えるのもまた同じような人だとしたら、 そこには弱いという価値があるのではないだろうか」
僕の尊敬する作曲家が仰られていた言葉です。 今回はこの言葉をモチーフに、一曲書きました。 願わくば、あなたが辛い時に寄り添える歌になれば幸いです。

https://www.youtube.com/watch?v=Z2ZO4Ah95H0&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=17 概要欄より

 バンドサウンドに乗せられた、凛としていて澄んでいるのにどこか鮮烈なピアノの音色が印象的なこの曲で始まるのは、アルバムを再生した人間の意識をはっと惹きつける強さがあります。
 曲に関しては引用したMVの概要欄でほとんど語られていますが、この曲は”弱い”からこそ見えるものがある、ということを彼自身の言葉で綴っている曲だと思っています。言いたいことを取捨選択せずとにかく詰め込んである曲だなぁ、とも思うので、歌詞を細かく拾っていくときりがないのですが……。
 人と比べて弱い自分が嫌いで、けれど自分のことを本当は愛したくて、それなのに愛せない自分がもっと嫌いで。渦巻く自分の思いを歌にして、抱えたどうしようもない思いを吐き出すために声を上げた。Aメロ・Bメロで展開されるそんな慟哭と並んで、自分と似たような思いを抱える人に寄り添いたいという不器用な優しさを表しているのがサビ回りの歌詞なのかな、と思っています。

 世の中には、強い人間、と称するほかないくらいにブレない軸を持った人々がいます。良い意味で語るのならば、確固たる自分があって、自分自身に自信を抱いている。自覚的にしろ無自覚的にしろ、他の誰でもない自分が存在して、行動する意味があると考えている人々がいます。これ自体に全く罪はなく、むしろとても輝かしく尊敬に値する姿だと思います。
 自己を肯定する力が高いことは、それによって他者を害することがない限りとても素晴らしいことです。人生は導のない無限に広がる迷路、もしくは広大な大地のようなもので、そこで一歩を踏み出すには勇気が必要です。自己を支えるものがなければ、勇気を振り絞ることもできず立ち竦んでしまうことだってあるでしょう。そこで迷いがあれど踏み出せるのが、強さを持った人なのかもしれません。そうして進んだ先で上げた成果を讃えられる——わかりやすく言えば、いい成績を取る、大会で優勝する、受験に成功する、業績を上げたり昇進したり、はたまた何かの有識者として頼られたり……なんて目に見えた結果があればなお、社会的に価値のあるひと、なんて讃えられ方をすることもあるのでしょう。そうでなくても、自分自身を誇って、前向きな思考や言葉を発信できるひとは、わかりやすく誰かを救い上げていく。
 では。その逆の、弱い人には、何の価値もないのでしょうか。
 臆病で、怖がりで、失敗ばかり。他人と比較すればするほど何もできない自分が嫌いになっていく。人の目を気にするくせに、ろくに取り繕えもしない。そんなどうしようもない自分を肯定することなんてできない。
 はたまた、何かに挫けてしまって、折れてしまった心のまま先に進めなくなってしまった。
 なにもできない自分はきっと、誰かのためになることもない。
 そんな弱さは存在する価値もないのか。そうではないと、彼自身の経験から来ているような思える言葉を重ねて、この曲の中で弱さそのものを肯定しているように思います。
 高い場所からでは足元は見えない。灯台の上からでは、その真下は見えない。空ばかり見ていては地面は見えないから、怖くて一歩を踏み出せない。
でも、そんな弱さを抱えた人間は一人じゃあないから。同じように立ち止まって、座り込んで、嫌というほど泣いて。そうすればまた見えるものが変わるかもしれない。そんな日が来るかもしれない。自分自身の経験を振り返りながら、そんなことをゆっくりと話してくれているように思うのです。
 人が抱える傷を無理に癒すような押し付けがましさはなく、ただそこにあることを肯定してくれる。そんな不器用に思える優しさに満ちた曲から始めることで、弱さを抱えた自分自身という人間について知ってもらおうとしているのかもしれません。

2.僕の頭からでていけ(Get Out Of My Head)

化け物の歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=oyD227oJmzI&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=14  概要欄より

 弱さを肯定したうえで続く曲は、その”弱さ”の一つである感情と強く向き合ったものです。
 暗く狭いスタジオの中でマイク一本と向き合う姿だけを映したMVが特徴的なこの曲は、流行りのマイナーコードのギターサウンドから始まり、聴いている人をどこか不安にさせるようなグロッケンシュピールの音色をサビで印象的に響かせています。いろいろな音色が混ざり合って入れ替わり主張をするところや、音の重なりや静けさに波があるところもぐちゃぐちゃになって身動きが取れなくなった人間の感情そのものであるようにも感じられるのが怖い曲だな、と思います。
 曲そのものとしては、”化け物”=”モンスター”と称した醜い欲求に振り回されながらもがいている一人の人間の曲だと思っています。一番は”歌を書いている”発信者としての視点、二番はSNSなどを介して誰かと言葉を交わしている様子に思えます。間奏が明けた先は他者を介さず自分自身と対峙している様子と取れるでしょうか。
 深夜、太陽が昇っていない時間の考え事はすべからく(誤用ですね)マイナス方向の結論に至るとはよく言いますが、この曲で描かれた人間(一旦、”夢追翔”とは限定せずにおきます)もまた、そんな夜更けにひとり自己否定と虚無感に苛まれながらただ言葉を綴ることでどうにか人としての形を保とうとしているのでしょう。
 空虚感、満たされない、という感情は、わかりやすい言葉で言えば、自分の中の強い”思い込み”のせいで生まれるとされています。中核信念と言われるものですね。「自分なんかが生きていていいわけがない」「自分には何もできない」「あらゆる人が自分を否定している」などと言った、何かしらの経験から根付いた自己否定もその一つです。悪化すれば鬱症状のひとつの微小妄想、そのうちの罪業妄想に至るようなもので、本来は成功体験やそれに紐づいた他者からの肯定、一歩進めば自己肯定によって少しずつ軌道修正をしていく、ないしは置き換えて拭っていくものなのですが……。
 この曲で描かれている人物はまだ、本来掛けられている他者からの言葉も自分事に受け止められず、苦しかった記憶を何度も反芻しながら苦しんでいる最中にあるように思えます。
 その途中でまた失敗をした自分を否定しながらも、それでも死にたくはないともがいている。自分のことを愛したいし、愛してほしいと願っている。それができるのも自分だけだと、醜い感情=モンスターを縛り付けて死ぬまで飼い慣らす、共存していくしかないのだと諦めながらも前を向いた姿を生々しいまでに描いている。
 夢追翔が綴る曲の傾向が、暗い感情に向き合って、時には諦めを孕みつつも、最後には一筋の光を見出しているものだと思える代表的な曲がこれだと個人的には思っています。

3.ミタサレナイトガール

 この曲はMVの存在しない、アルバムだけに収録された曲のため、曲調と歌詞から考えていきます。
 ベースの低音と耳に残るギターメロディを強く響く金管楽器が飾り立てた、全体的にマイナーコードで纏めらているのもありどこかダークな雰囲気が漂う曲調で綴られたこの曲は、前述の”夢追翔ではないと取れる誰か”の生き様を描いたものです。また、歌詞のうちでも特徴的なのが、サビの中で何度も繰り返し「ai」で踏まれた韻でしょう。
 ひとつ前の曲でも散見された「満たされない」という感情をそのままタイトルに載せたこの曲は、他の誰でもない自分を満たす愛を欲して泣いて、けれどそれを解決するためにどうしていいのかわからない一人の女性の生き様を描いた曲だと思っています。
 この曲の中の「あたし」は、本当は誰かの中の一番として「愛」されたかった。愛されたいと今もなお思っている。愛という幻想に抱いた憧れを捨てるほど人生を諦められないし、コンプレックスは克服した、ないしは気にしていないと強がっていても、過去に傷ついた心は放っておくだけじゃあ癒されないまま。先に述べた、心の奥に根付いた”思い込み”が深く蝕んでいる姿そのままで自分の中に籠ってしまったのがわかる曲の終わり方は、前の二曲と比較するとなかなか強烈な余韻を残すものです。
 ひび割れた器には、ヒビの入った側面のうち無傷である高さまでしか水は入りません。注がれた傍から零れて、直さない限りはずっと満杯になることはあり得ない。
 リービッヒの最小率という説があります。これのわかりやすい例として挙げられるドべネックの桶というもので、植物の成長を桶に張った水に見立てて、桶を構成する板を養分や要因と見立てると、一枚の板だけが長くても、一番短い箇所からは水が溢れてしまい、他の要素がどれだけ多くても成長には影響がないとするものです。現在は必ずしもそうではない、と言われているようですが、人間を苛む尽きない空虚感に関しては、この説に近しいものを感じています。どれだけ他者から本気で賞賛を受けても、愛されても、そもそもそれを受け止める器——心が歪んだままでは、正しく受けいれられない。器のてっぺんまで満たされることはない。この曲で自分の殻に閉じこもってしまった女性の心の器も傷ついて歪んでしまっていて、それ以上傷つくのを内心恐れて本気で愛と向き合うこともできず、また注がれているかもしれなかった愛も受け止められなかった。
 彼の曲の中では珍しく、生々しく性を匂わせる描写と、それとはアンバランスな夢見がちな少女の言葉選びはアルバムの中でも異色です。だからこそ、”夢追翔ではない誰か”の曲だと言えると同時に、これも一つの生き様——誰かの人生という箱庭を俯瞰して見ている気分にさせられます。

4.大嫌いだ(I … You)

嘘吐きの歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=lOg1YeQX2w0&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=13  概要欄より

 静かに響くキーボードの音色から始まるこの曲は、全体的に穏やかで物寂しい曲調で展開されています。後ろを向いて内省を繰り返して、斜め前を向いて嘘を吐く。MVでは基本的に後ろ姿が映されていて、顔が見える斜め前を向くのはサビとCメロだけです。単調な構図なのに表情を見せない、もしくははっきり表情が伺えない構図を組み合わせることで奥行きを作っているMVは、その時点で可能だった技術を組み合わせた思い切った工夫がされています。
 曲としては、こちらも一つ前と同様に”夢追翔ではない誰か”の生き様を切り取って綴ったものでしょう。書下ろしの前曲と並べたことで、その特徴がよりはっきりと見えています。
 そして曲のテーマとしては、単純に汲み取れば”自分に嘘を吐く女性”の歌であり、自分の気持ちに嘘を吐くことで傷を深くしないよう自分を守っている、そんな姿を描いたもののように思えます。
 この曲を素直にこの女性視点で紐解くと、思わせぶりな態度ばかりで煮え切らない”君”と日々は幸せだったけれど、だったからこそまだその日々を終わらせる決心ができずにその場で足踏みをしては泣いている。でもどうにか前を向こうとしている、そんな姿に見えます。

 ただ、ここで一度思い返したいのが、”VSSW夢追翔”は捻くれものであるというところ。
 この曲、一人称視点であるがゆえにこの女性からの視点しかないわけですが、果たしてこの女性は本当に、失恋から立ち直ろうとしている”健気な女性”なのでしょうか。この女性と”君”は、どちらから別れを切り出したのでしょう。そもそも付き合っていたのでしょうか。こんな疑問が出てきたのは、2ndアルバムの『君の好きな僕』を聴いてからです。解釈が増えたというか変わってしまったというのが正しいのか……。
 「足りないものばかり数えてては」というフレーズから、好きである感情に胡坐をかいてどこか理想を押し付けていたようにも思えますし、直接会えない日に掛けられた電話にもきちんと出ていたのでしょうか。「何度繰り返して慣れっこだろう」という歌詞からはこうした終わり方が初めてではないこともわかりますし、終わりにしたいと話している割には、「返事来るたび嬉しくなる」という程には自分からも発信をしているようです。こうなってくると「君からは「またね」って言わないとこ」というフレーズも邪推してしまいます。”守ってくれなかった約束”が何かは明確に述べられていないため全て憶測にはなりますが……。
 ここまで穿った見方をせずとも、対話をせずに逃げて泣いて身勝手に終わらせようとしている女性と、対話を試みようとしていた口下手な”君”の好意がすれ違って破局に至っていたら、と思うと一方的に”健気な女性”の歌とは取れなくなってしまうから不思議です。そしてもし"VSSW夢追翔”がそこまで考えて曲を作っていたらおそろしいなとつくづく思います。

5.カケル

 こちらもアルバムだけに収録された曲のため、曲そのものと歌詞から考えていきます。
 シンセサイザーで始まるイントロから統一して疾走感のある気持ちのいいバンドサウンドは、前2曲とがらっと色が変わることをわかりやすく提示しているようでもあります。
 タイトルの「カケル」という三文字は、"VSSW夢追翔”の名前でもあり、それ以外にも数多の同音異義語を有しています。欠落の「欠ける」、疾走の「駆ける」、勝負を「賭ける」、物事を掛け合わせる「×」、絵を「描ける」なんて文字の当て方もありますね。あらゆる意味を孕んだ三音を前面に押し出したこの曲は、”夢追翔”が一歩踏み出した先の世界での自己紹介であると個人的には受け取っています。
 涙が溢れるほどの悔しさも、そんな何もかもすべてを糧にする。逃げ出したい気持ちがあるほどには等身大の人間で、それでも「欠けた」自分のままで立ち向かおうとする。自分の中の「欠けた」箇所を埋められるものが何か探している。一番は過去を振り返って道半ばで内省している姿に見えます。
ひとつ進んだ二番では、決意を抱いて顔を上げた姿が汲み取れます。才能が「欠けて」いても、息をしたい。生きていたい。そんな意志の底で渦巻いている”マイナス感情”には糧にしようとした”悔しさ”もきっと含まれているでしょう。糧にしたすべてから後ろ暗い感情を自分の武器、自分だけのナイフとして磨いて生み出した言葉を音楽と「掛け合わせて」、空を「翔ける」——飛び立つための力にする。自分の武器を、確固たる強さを答えのひとつとして見出して、地面を強く踏みしめた瞬間を切り取っているようです。
Cメロからラスサビに掛けては、どんな情けない姿を晒そうと自分の決めた道を進もうとする、そんな強さをありのまま描くことで自己紹介を締めているように思いました。
 個人的に、Cメロの「嘘で構わない」という言葉から続く、「綺麗事ばかり並べた歌」というフレーズが印象的で。ここで指す「綺麗事」も、おそらくは「世界は君のためにある」みたいな一般的な前向きなものではなくて、卑屈な感情を昇華に導いた——言ってしまえばこの次の曲のような、"VSSW夢追翔”の綴る自分の弱さに向き合った末に辿り着いた温かい感情のことかなと個人的には感じました。ただ、だからといってそれら全てが「嘘」なのではなくて、渦巻く感情のうち”綺麗に見えるよう側面を切り取ったもの”であることを指しているのかな、と思っています。正負の感情が入り乱れてこそ人間で、快不快の二つの信号だけで生きていないからこそヒトという生物から一つ越えて”人間”となり得るからこそ、多様な側面が垣間見える作品を残すことが”VSSW夢追翔”が生きていた証になる、と語っているんじゃないかと勝手に感じています。

6.人より上手に(Better Than Someone Else)

自白の歌です。初めて手描きMV(と呼んで良いのかわからない)を作ってみました。

https://www.youtube.com/watch?v=1u9ESQRXTMo 概要欄より

2021.05.31 Release 夢追翔「人より上手に」 ボーカルを再録し、新たに手描きし全身3Dを交えた新MVを公開。

https://www.youtube.com/watch?v=28PAq7k5JEg&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=10 概要欄より

 この曲、どうしても感情を切り離して考えるのが難しいぐらいには、初めて聴いた時からずっと、あまりに”痛い”、”痛々しい”曲で胸が苦しくなります。自分の心の中にあった、瘡蓋にすらなれずに膿んでいた部分に触られたような、そんな感覚がいちばん近いというか。
穏やかなテンポで紡がれる寄り添うような柔らかい音色、帯びた熱を隠さないギターの傍らで明るく聴こえる声が歌い上げるのは泣き出したくなるような”自白”。

※自白とは
[名](スル)
1 自分の秘密や犯した罪などを包み隠さずに言うこと。「カンニングを—する」

https://www.weblio.jp/content/自白

 この曲はMVが二種あるのですが、くしゃくしゃに丸めた紙に描かれた落書きのような初期MVも、色鮮やかになった世界で”夢追翔”の解像度だけが高くなったRenewal Ver.もどちらも違った魅力がありますよね。個人的には、より没個性的な初期Ver.の方がよりストレートに胸を突き刺してくる心地がして辛いものがあります。ただ、より”夢追翔”当人の生き様として描かれているように思えるのはRenewal Ver.の方なので、アルバム全体として通して聴くときに思い浮かぶ映像は後者かもしれません。
 臆病なひとりの人間が一つずつ内省をしながら道を歩んでいく等身大の姿を描いたこの曲、一番で語られた「人より上手くできない」という事柄はこれまで選んできた生き方の理由でもあり、傷つくことを恐れて向き合ってこれなかった言い訳でもあるでしょう。「生きることに本気になれなかった」というフレーズで、おそらく確たる意思を持たなければできない自死の方法の一つである首つり縄が切れているのも、生きることにも死ぬことにも向き合えなかった”弱さ”を自嘲めいて表しているようでもあります。
 アルバムの1曲目でそれにも価値があると話した”弱さ”を、1番のAメロ・Bメロでは強く取り上げては痛々しい自虐として語っている。傷つくことを恐れる弱さゆえに身動きが取れない。けれどそのままでは空虚感に苛まれたままで苦しくて、このまま折れてやるものかと立ち向かってみたその道中すら楽しかった。こんな振り返りは虚勢でもあるかもしれないし、本心そのものかもしれません。
 2番で出てきた「人よりも人を愛せないから 誰彼構わず疑っていた」というフレーズが個人的には重たい言葉だな、と思っています。”人よりも人を愛せない”とは、愛そうとしたことがあるひとからしか出てこない言葉です。ここで言う愛とは、すべてが恋愛的なものに収束するのではなく、広義的な”好意(親愛、親しみを感じ愛する)”と捉えています。友人、家族、先輩後輩、上司部下……自分を取り巻く人間関係で他者に覚えるはずの好意を手放しで抱けず、常にその言葉の裏を疑ってしまう。そうなってしまったのは、愛を注いだはずの相手に裏切られたからか、それともその愛が空回りであったのか。はたまた、巡り巡って人を愛そうとすることで自分を愛そうとしていた己を醜いと思ったのか。
 すべて憶測ですが、そんな思いが根底にあったからこそ抱いていた「自分を曝け出す」ことへの恐怖や、自分に向けられた愛をそのまま受け取る勇気のなさ——この場合は自己保身、自分を守るためにすべてを遮断する無意識の癖があった。ただ、そんな姿勢でい続ける必要はもしかしたらないのかもしれない、と気づいた。その理由を語っているのが2番のサビなのでしょう。
 人より上手くできなくとも、自分が歩いてきた道は振り返ればそこに存在しているし、それは自分だけのもの。外から何を言われようと、”自分が生きている”事実は変わらない。空虚感は残っていても、自分が人より劣っていても、自分の中にあるものを大事にしていければ、いつか実を結ぶかもしれない。そんな、何かが劇的に変わったわけではなく、自己を内省することで前を向く姿勢が取れた。だから、警戒を少しずつ解いて、自分を曝け出していってもいいのかもしれない。抱えていた秘密を告白しながら、変わろうとする自分の姿を描いている。
 自己との対話を経て夜が明けて陽が昇った、そんな穏やかな変化で締めくくられたこの曲は、前の曲で述べられていた「綺麗事」なのかもしれません。それでも、これも一つ揺るがない”生き様”のうちのひとつと言えるでしょう。

7.オリジナリティ欠乏症(Originalityless)

要らないものの歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=7oyG6Yt1V4E&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=8 概要欄より

 人より上手でなくても良い、と語ったその口ですぐ様この曲を続けるのはひどい皮肉だな、というのが率直な感想です。
 主張があまりに強い鮮やかなシアン(#00ffff)を背景に近年よく見かける一枚絵と多様なテロップを用いたMVは、クオリティの高さゆえに没個性的とも言えてしまいます。実際、動画内の表現は”どこかで見たような”フォント・変形・吹き出しがよく用いられています。(例に挙げるとすると『ヴァンパイア/DECO*27』『爆笑/syudou』『うっせぇわ/Ado』『ダーリンダンス/かいりきベア』などのオマージュ?)
 描かれている一枚絵もこれまで上げてきた曲とは違い、赤い目・黒髪・虹色のヘッドホンなどは合致してこそいますが、”夢追翔”であるとは断言できない人物となっていますね。
 曲としては、キャッチーなイントロから始まって、Aメロで同様のフレーズを二回、Bメロで下げたあと一瞬のブレイクを経てサビに突入するベーシックな展開。言ってしまえば、そこには特殊な技巧も発想も存在せず、近年のJ-POPなどでよく見かけるような、予想できないメロディ展開で聴く人間の心を掴むようなものではありません。けれど、メインメロディと攻撃的に思えるサウンドの中でやや中低音に沈んだギターの柔らかさを含んだ音色は一度聴くとしばらく頭に残るものとなっているように思います。

※オリジナリティ—〘名〙 (originality) (考え方、行動の仕方などについて)世間なみでない独自の新しさ。また、独自の考え方や活動をしてゆく能力。独創性。

https://kotobank.jp/word/オリジナリティー-455297

 上記の没個性的な曲調・MVの造りを踏まえたうえで歌詞について考えてみると、この曲は”自分だけの武器””自分だけの音楽”を模索し続けてもがいているひとりの人間の歌だと言えるでしょうか。
 馬鹿馬鹿しいとすら思える消費社会の中で生き残る、息を続けるために、拾い集めたものか捻りだしたものかもわからないものをツギハギして”どこにでもあるようなもの”を作っている様がある種滑稽だと自虐しているようなAメロの終わりに出てくるのが「自分の個性」というワード。「粗削りな衝動」がそうであるとBメロで見出したように見えたけれど、それは「下位互換」だった。そんな絶望感に苛まれながら吐き捨てた「お前のためにゃ歌っていない」という言葉はある種の強がりなのかもしれません。
 個人的には2番Aメロの解釈がちょっと難しくて。誰の「墓場の前」で、正義に酔いしれて誰を突き刺した末に自分に対して言い訳しているのでしょうか。見出したはずの自分だけの個性、自分だけの音楽を一度諦めて埋葬して、足掻く自分を見捨てようとしたことに対して言い訳をしているとしたら、Bメロの「前倣えの癖」が染みついた自分が、いわゆる”普通””没個性”といった道を外れることへの恐怖から、見出したはずの己の個性を捨てようとした臆病さを描いていることにも繋がるかな、と思っています。
 個性的、独創的であるということは、普遍性から外れるのと同義です。その道を進もうとすることが「間違いじゃないと信じさせて」ほしいと話す姿からは、まだ自力では決断しきれていない”弱さ”が垣間見えます。
 落ちサビで語られる「本当のこと」が指すのは、自分が圧倒的な才能の「劣化コピー」でしかないということで、求められているのは他でもない「自分」ではない。そうだとしても、今立っているこの場所——ステージに少しでも長くいたい。そこに立っていてほしいと願われているのが他の誰でもない”自分”ではないとしても、そうだとわかっていても、”自分だけの音楽”が求められていると願いたい。そのために生きている、息を続けている。命を削っている。そんな、諦めを内包しながらも足掻き続ける姿が、この曲では歌われていると思います。

 そもそも、概要欄で述べられた、「要らないもの」とは一体何を指しているのでしょうね。
 自分というアイデンティティか、はたまた自分にしかできないもの、作れないものがあるという傲慢なまでの誇りか。思考停止して膨大なコンテンツを右から左へ流しながら消費していく社会の中では、圧倒的な才能を前にすれば自分は替えの効く劣化版にすぎない。自分というこだわりは要らない、求められていない。そんな自らのアイデンティティを否定されるような真理を前に絶望して足を止めてしまうのではなく、自分という存在が揺らがずそこにあるよう証明するため、そこに在り続けるために足掻きたい。そんな泥臭い生き方も、”夢追翔”の生き様の一側面なのでしょう。

8.死にたくないから生きている(Dying To Live)

初めまして。バーチャル世界でシンガーソングライターをしています。 にじさんじSEEDs、夢追翔(ゆめおいかける)と申します。 このデビュー曲に、僕の持てる力を翔けました。 感想をください。肯定も否定も全部読むから。

https://www.youtube.com/watch?v=XVVXrJQQuNs&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=19 概要欄より

デビュー曲「死にたくないから生きている」をリニューアル。 歌声を全て録り直し、全身を使って表現するMVとなっている。

https://www.youtube.com/watch?v=1ANsos282MU&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=12  概要欄より

 この曲に関しては噛み砕く必要がもはや存在しないほど、あまりに等身大な”夢追翔”の自己紹介、決意表明の歌だと言っていいと思っています。
 シンプルな鍵盤の音がリードするバンドサウンドに載せて語られるのは、率直すぎる言葉遣いでもって述べられる覚悟であり、決意であり、そしてこんな存在がいると知ってほしい、そんな祈りの歌でしょう。
 MVを構成するのは、”体育座り”をして自分の殻に閉じこもる姿、”ライブハウス”という夢見た音楽の中で生きる姿と、”駅のホーム”という死に近い場所。”スーツを纏った黄色い花頭の人間”は画一化された存在の象徴と言えるでしょうか。
 一曲前のフレーズを引用すれば、この曲は本当に「粗削りな衝動」そのものです。
 現代社会で、”夢”だけで生きていくのはすなわち”普通”のレールから外れると同義です。満員電車に詰め込まれるように、同じ型に嵌め込まれて適応することを求められる。その状態で生きていくのが辛くて、”夢”を追ってレールから外れることを選んだ。そんな姿を描いたのが1番の歌詞。
 2番では、生き方に迷っては死に近い場所で自らと問答している様子から始まり、”夢”だけを”命綱”にして生きる決意をしたことを語っています。その命綱がいつか自分の首を締める結果になったとしても構わない。そんな自らの決意の固さが垣間見えるように、2番には”君”という単語が存在しません。
 ラスサビには、正しく”生き様”を歌っていることを象徴する「生きてるんだ世界のどっかで バーチャルだってきっと」という言葉とともに、見届けてほしい、知ってほしいという切実な願いが語られています。
 ”バーチャル”という造られた箱庭、言ってしまえば現実に存在しない”絵空事”。それでもきっと、「君の心の中にいる」。彼を知る人の中に、”彼”は”偏在”する
 これほどまでに強く”夢追翔”の生き様を描いた曲がアルバムの最初でも最後でもない位置に存在しているというのはある種、これをリリースしたときの彼にとっては、この曲の内容は既に一番伝えたいこと、最も覚えていてほしいことではなくなっていたのかもしれません。

9.青空を睨む(Gaze into the sky)

臆病な歌です。

https://www.youtube.com/watch?v=HcmGG9e5d_Y&list=PL-_4ze9jVHOGo0LI6ogGYNyOe6LanDa3C&index=13  概要欄より

 アルバムのラストを飾るのは、アルバムのジャケットの背景を彷彿とさせるような、眩しすぎるほどの青空のMVが印象的な曲です。
 澄んだ空と合うような爽やかなギターとシンセサイザーの明るい音色から始まるこの曲のMVには、ピアノもドラムセットもギターも何もかも存在しているのに、”夢追翔”以外の人間はいません。水平線か地平線かもわからない、無限に広がる、広すぎる世界にぽつりと存在している彼が空に手を伸ばしながらのびのびと歌っている光景は、物寂しいようでも、自由で壮大なようにも映ります。隠れる場所のない、陰の存在しない世界というものは逃げ場所すらも存在していない残酷さを孕んでいるようにも見えます。
 そんな印象をそっと裏付けるような、開幕の「ハリボテみたいな空」というフレーズが静かに突き刺さってきます。

 この曲はひどく臆病な人間が、生きていく中で負った傷も何もかも背負って、残酷なまでに眩しい空——世界を睨み返してもう一度戦おうと歩き出す。そんな”弱さ”を持った人間の”強さ”を描いた曲だと思っています。
 作り物のような空、世界から後ろ指を差されることが怖い。それでも、嘲笑われて否定された地図——夢を諦めたくない。辛かったことも痛みも涙もすべて糧にして、自分を笑った世界のすべてを見返したい。臆病なままでいいから、一歩ずつ踏み出そう。1番で語られているのはそんな決意。
 2番では、それでも聞こえてくる嘲笑や誹りが決意を揺らがせてくるけれど、一度点いた情熱は消えないと、夢を追うと決めた自分自身が殻に逃げ籠ろうとした自分が教えてくれている。自分の持つ清濁すべてが己を構成していて、だからこそありのままの自分でいいのだと背中を押しているようです。
 「はみ出し者の戦い」とは、1曲前で触れた”普通のレールから外れた”人間が夢に挑む姿と同じものを指しているように思います。そういう意味では、2番のサビは前曲で伝えたかった”自分という存在を見届けてほしい”という祈りを含んでいるのかもしれません。
 落ちサビではそうして走ることに疲れても、心折れそうになったとしても、世界は変わらない、という残酷なようである種のやさしさを語っています。そのうえで、ラスサビではそうまでして挑んだ”夢”が叶うまで不格好なままでも走って、走り続けて、自分はここにいると存在を証明したい、自分が生きている証を残したいんだと世界を睨みつけている姿そのものを描いている。
 決意表明から一歩進んで、自身を取り巻く世界を見据えて、これからどうしていくのかを語っているこの曲が、”絵空事に生きる”と題したアルバムの締めにふさわしいのはもう言うまでもないかもしれません。

preludeEPという存在——『絵空事』とは

 ここまで全曲を紐解いてきたうえで、最後にアルバムの表題として掲げられた『絵空事』とは何かについて考えてみて締めとしたいと思います。

 そもそも絵空事とは、何を指していたのでしょうか。
 ”夢追翔”という存在そのものが”絵空事”なのかもしれない、というのが個人的な意見です。
 今回は1st Albumに基づいて楽曲を紐解きましたが、先に述べた通りそれより前にリリースされた1st prelude EPというものが存在しています。
『絵空事の入口』と題されたそれは、抜けるような青空の下で満面の笑みを浮かべる”夢追翔”の写真がジャケットとして掲げられています。
 対して、Full Album『絵空事に生きる』は、その写真を撮ったであろう撮影スタジオで不器用な笑みを浮かべている”夢追翔”の姿をジャケットとしています。
 眩しいほどの笑みは”理想の姿”、誇張して描かれたもの。どこまでいっても現実ではない。そこに在る現実は、笑みを浮かべきれない一人の人間が暗い撮影スタジオに立っている様子でしかない。
 そんな落差が人の心を掴むものではあったと思うのですが、さて。ではなぜ、prelude EPは『入口』と題されたのでしょう。”VSSW夢追翔”が歩んできた道筋の通り、発表順に並べられた楽曲と合わせて考えると、”VSSW夢追翔”そのものが絵空事で、作られた箱庭のひとつであり、そしてその中で生きていく、生きている人間がいる、という様を見せつけるために、タイトルとジャケットを変え二つのアルバムとしてリリースされたように思います。
(念のためですが、実際には、おそらく書下ろしの3曲が当初のリリース予定日に全く間に合う見通しが立たなかったので2つに分けられた可能性が高いのでしょうが、それすらも演出としたというのがニクいところだなあと思っています)

 そんな風に考えると、自らの夢を抱いて、死ぬまで追い続けるという覚悟を歌う人間——”夢追翔”という存在そのものを描いたアルバムはある種ひとつの物語音楽の体を成しているな、と思うわけです。
 記事としては前後していますが、2nd Albumも一貫したテーマで綴られたものであることを思うと、おそらくこれから、ないし今作っているであろう次の楽曲たちがどんな顔をこちらに向けてくるのか、どんな箱庭を見せてくれるのか。どんな光景を我々に見せつけてくるのか。より楽しみに思えてきますね。

 つらつらと長く語ってまいりましたが、一応念のため、これらすべては個人の主観で、個人の解釈に過ぎません。きっと人の数だけ解釈がありますし、時を経れば自分自身の解釈もきっと変わると思います。その時自分が置かれた環境で受け取り方が変わるのも、音楽の魅力のひとつです。それでも、長々と綴った一人の解釈をここまで読んでいただきありがとうございました。
 これからも、彼が生み出して彩っていく箱庭を覗くことを許される世界が続く限り。はたまた私自身の熱が尽きるまで。"VSSW夢追翔”が発信する音楽を通して、彼が生きている、生きていた証を目に焼き付けられる幸せを噛みしめていけたらと思います。
 このたびは、お誕生日おめでとうございました。これから先の1年が、また彼にとってよき日々となりますよう勝手ながら祈っております。

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