aiko カブトムシ/和の感性

吉野龍田図 六曲一双のうち左隻 江戸時代 17世紀

先日、サントリー美術館の「歌枕 あなたの知らない心の風景」[6/29~8/28] 展に行ってきました。
そこには歌人の間で共有される心の風景が、和歌を中心に美術や工芸品に投影されていて、日本の美を体感することができました。

そして何やらaikoのヒット曲「カブトムシ」と通底する世界観のようなものがあることに気づきました。

そういえば昔のインタビュー記事で、文学的背景について問われたaikoは、本よりも漫画の影響が大きい、と答えていた事がありました。
なるほど日本漫画の文学性は言うまでもなく高いので、それ自体として回答になり得るのだなあと思ったものでした。
今にして思うと、その明らかな和歌への造詣の深さを隠すあたりが、aiko の奥ゆかしさなのでしょう。

そして歌枕展では屏風絵や掛軸に歌が添えてあり、まさに漫画の起源のような作品が点在していました。

そこで厚顔無恥を承知で二人の歌人に登場願い、aikoと和歌との親和性について考えたいと思います。

吉野川よしや人こそつらからめはやくいひてしことはわすれじ

凡河内躬恒〈古今和歌集 巻第十五 恋歌五 794〉

悩んでる身体が熱くて
指先は凍える程冷たい
「どうした はやく言ってしまえ」
そう言われてもあたしは弱い

aiko〈カブトムシ〉

躬恒の和歌にある「はやく」とは、「あの時」、「昔」といった意味なので、aikoの「はやく言ってしまえ」の「はやく」とは意味の点では異なるかもしれません。

しかし吉野川は急流で、激しさや強さの比喩なので、ここで「速く」や「早く」とつながってしまいます。
具体的に説明し難いのですが、語感としての「はやく」は2つの歌に共通して一定の強度があるように思えます。

この作者、凡河内躬恒は「丹波権大目」という行政職を担っていたとのことです。その管轄地域は大阪北部の吹田市も含むようです。そして、aikoは吹田の出身です。ここでも何か作者との縁を感じてしまいます。

弓張の月にはづれて見し影のやさしかりしはいつか忘れん

西行〈山家集620〉

弓張は月の枕詞ですが、凡庸な「お約束」を越えた、緊張感を伴う味わい深い表現に思えます。そこで目の当たりにするのは、満月の下では決して現れ得ない情景です。微かな月明かりに映るその優美(やさしかりし)なまでの姿(影)は、ゆめかうつつか、境界はおぼろげです。

少し癖のあるあなたの声耳を傾け
深い安らぎ酔いしれるあたしはカブトムシ
琥珀の弓張り月
息切れすら覚える鼓動

aiko〈カブトムシ〉

あなたの声にこの上なく心の平安を得るあたしは、確かにカブトムシなのです。
半月の薄明かりの下では。
しかし、この至上の安らぎは束の間の夢かもしれません。なぜなら、こんなにも激しい鼓動を感じているのですから。不安で。

古今和歌集について、歌人で国文学者の窪田空穂はこう記しています。

古今和歌集の和歌を通覧して、第一に最も際立って感じられる事は、人事と自然とが一つになり、渾融した状態となって、どこまでが人事で、どこからが自然かという見さかいの付かなくなっている和歌の多い事である。

人事と自然とを一つにし、渾融させるという事は、人間と自然とを平等に見て、その間に差別を認めない心の現われである。人間と自然とを全体として見るという特殊な心がなければ、こうした和歌は現われないはずである。

窪田空穂 <古今和歌集講釈>

どうやらカブトムシは、古今和歌集に通じるものがありそうです。

生涯忘れることはないでしょう

aiko〈カブトムシ〉

先の二首でも「わすれじ」「忘れん」とありますが、「忘れない」は当時の歌人にとって大切なキーワードのようです。

そしてカブトムシでも、それは連呼されます。

これらに共通するのは、季節感漂う風情のある比喩と、このように直裁的なフレーズとの取り合わせが絶妙に作用することで、自らが経験した自然と心緒との調和を鮮やかに、リアルに伝えることに成功していることでしょう。
そして「忘れない」ということが、頭に長く記憶することではなく、心に深く刻むことなのだと、ひしひしと伝わってきます。それは揺るぎない覚悟のようなものにも思えます。

日本のポピュラーミュージックがJ-POPと言われて久しいですが、万葉集以来、歌(詞)の本質は何も変わっていないように思えて仕方がありません。永続的に不変な日本人としての感性、とでも言うのでしょうか。それは自然を自分の心情と重ね合わせてしまうセンスを共有できる伝統的な空気感が、千年以上前から変わらないからなのでしょうか。

日本人(国籍でなく、日本で育った人を含む広義な意味で)と形容して良いかは分かりませんが、自分が僅かながら米国と欧州に居住した経験からも、日本にはそれでもなお独特な自然観(を芸術化させる感覚)があるようにも思えます。
それは、自然は征服できるもの、月はアクセスできるもの、といった感性からは遠く離れているためです。
その独特な感性を凝縮させた果実が和歌であり、歌謡曲である気がしてなりません。

現代のヒット曲に、千年前の和歌を感じることで、連綿と繋がる歴史の一面を目撃した気になってしまいます。
そして何故か、その事件を誇らしく思えてしまいます。
言葉を受け継ぐということは、感性をも引き受けるのですから。

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