見出し画像

決定論的、運命的

 ある実験(ベンジャミン・リベットの実験だっただろうか)によると「人間が手を動かそうと意識するよりも先に脳が電気信号を送っている」という結果が出ている、という話がある。これは、自由意思と決定論の議論の際に、自由意志否定派の科学的エビデンスとしてしばしば提出される参考資料的な話である。


 フロイト的な無意識や「咄嗟の判断」のような人間の動きを実感すると、案外そんなものかもなー、と妙に納得できてしまう話ではあるが、リベット実験の結果を現実に当てはめると社会生活を送ろうとするものとしては甚だ面倒な話でしかない。もし何かの事件を起こし、刑事などによる取り調べの場で「悪魔が囁いた」「なんとなく」「体が勝手に動いた」などと説明したら、それがどんなに正直な返答であったとしても、事情聴取の時間が長引くだけだろう。「意識や意思は唯物的なものの外側にある」などとよくわからない託宣を言っても、一旦牢獄へ送り返されるハメになるのである。


 これは、人間が機械でしかなく、ほんとうは身体が勝手に動いているだけの現象でしかないにも関わらず、なぜか精神が身体を制御しているという錯覚を振りほどくことができない、というニヒリスティックな世界観をさらに強固にしている。このセカイには無意識しかない、という主旨をなんとなく人々はわかっていながらも正式に公共の場で主張することは社会通念上の禁句のような問題となっているのである。


 とりわけ、リベット実験の結果が暗示する「決定論」的な世界認識は、いわゆる「運命論」の科学的エビデンスとして流用しうる可能性を含んでおり、じつは占いや霊感商法を含めたスピリチュアルなものの論理的な基盤として、常にすでに社会の中に沈着している。近代以降、素朴な神への帰依から科学的合理性による社会運営を目指してきたわけであるが、リベット実験がその臨界点となり再び「運命論」として回帰してきたわけである。


 しかし、社会的に抑制・規制しなければならないほどに現代の社会は科学への依存を深めている。99%科学的合理性で賄ったとしても、残りの1%がすべてを覆してしまうからだ。


(ちなみに最近起きた安倍元首相銃撃事件はその意味においても象徴的である。犯人は新興宗教への憎悪を自己の中で攪拌させながら、最終的な解決策として日本社会そのものの象徴である安倍氏を殺害する計画を立てる。銃撃である点を強調するのはミスリードであり、彼は確実に対象を殺害するための方法を模索した結果、つまり再現性をもつ“科学的手法”の探求によって自らを「決定論」的世界観に追い込んでいった結果、なるべく他人を巻き込まないようにかどうかはわからないが、あの場で銃を使っただけであり、爆弾や毒薬が使われてもおかしくなかったのである。その結果、犯人は自らが憎んでいた“宗教の論理“である「運命論」的な立ち回りに転換していったのだ。)

 ーーーーーー

 上記までが今回投稿しようとしていた分の文章であったのだけれど、実は記事として投稿しようとEnterキーを押す間際に「ほんとにリベット実験って呼び方で合ってたっけ?」と思って検索にかけたところ、

https://wired.jp/2016/06/13/free-will-research/

 
というページが出てきて焦った。

 このページで紹介されている新しい実験結果については不勉強ながら全く知らなかった。ここで語られているリベット実験への反証に基づくささやかな自由意志肯定論が、上記のぼくの文章の内容に対し何を要求してくる可能性があるのか、今のぼくにはよくわからない。

 それに、それぞれの記事の間にそれほど対立点があるわけでもない。

 あえてぼくの所感から言えば、0.2秒の間だけ計測できた「自由意志」の存在も、それが科学的実験に基づいた科学的エビデンスである限り唯物的なものであり、決定論から運命論への論理をほんとうに否定しうるような実験結果かどうかは甚だ疑わしい。

 決定論者は、その「自由意志」や「精神」の存在(つまり心の動き)そのものも含めて決定論的に語るからである。

 ーーーーーー

 この投稿の文章は本来、より大きく膨らませてまとめようと思っていた未完成な文章です。

 なので、読んでくれた方は何か感想やご意見がもしあればコメントなどして頂けると大変刺激になります。反論やご指摘でも全然オッケー!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?