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時間順序保護仮説への音楽論的反論

 時間順序保護仮説とは、物理学者のホーキングがタイムトラベルの実現可能性を否定する根拠として提示した量子物理学的な仮説だ。


 ぼくたちが未来や過去に移動することは〈量子物理学的に不可能〉ということらしい。


 しかし本当にそうだろうか。


 ぼくたちは〈音楽〉によって未来や過去に行き来できているような感覚をすでに得ている。


 ここで彼の仮説が、時間の方向や順序についてのいわゆる「時間論」として提出されていることに着目し、時間についてはある意味お家芸ともいえる「音楽論」がこの時間順序保護仮説についてなにか言えないかを考えてみることも決して無駄ではないだろう。


 音楽は「時間の芸術」といわれる。


 翻って、音楽が芸術として特権的だという主張は、「時間について何らかの認識的変化を起こすことは音楽にしかできない」という主張と常にセットでなされる。


 いうまでもなく、音楽は多くの文化に一要素として棲みついている。


 ケージは音楽がその従来の性格を変化させていく果てに「演劇」に近づくと推測していた。


 音楽における演奏と演劇は共に「演技」という点で共通している。


 また、演奏も演技も、現在という一点においてのみ現象される。


 過去に戻って演奏し直すことも、未来の自分に演技させることも「現象としての人間」にはできない。


 では、音楽によって「あの頃がありありと蘇る」や「未来へと一歩踏み出す」などの現象が可能になるのはどうしてなのか。


 量子力学的に禁じられているはずの現象が、音楽を経由することによって「なぜか可能になっている理由」はどこにあるのか。


 量子コンピュータによる高速計算処理を駆使して作られるこれからの(未来の)世界観は、量子の非合理な振る舞いを含めた形での「数学的存在了解」を受け入れる必然性が求められる一方、「数学的構造体」として受け継がれてきたこれまでの(過去の)音楽観は一つの音楽論的イデオロギーとして、あくまで「たまたまピタゴラス主義が流行っていた世界」として相対化される。


 この「たまたまピタゴラス主義が流行っていた」問題についての考察を出発点にしていたのがデリダである。


 デリダは、フッサールの『幾何学の起源』の序文で“「三平方の定理はピタゴラスによって発見された」という歴史認識”にまつわる、奇妙かつ明晰な疑問点を提出することで自らの哲学的仕事をスタートさせた。


 ピタゴラスという存在によって作られた数学と音楽の基礎論は、ホーキングとデリダにおける歴史論的存在論の対立や、物理学と音楽における数学論的存在論の対立を生み出した。

 →→→時間があれば、つづく、、、

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