シェアハウス・ロック2404中旬投稿分

明治時代の言語の断層0411

 近代日本語は明治期にそのおおかたが整えられたと思う。だが、その明治期内でも、相当の変遷がある。それを知ったのも、自己流でコツコツ勉強をした過程で、である。
 福澤諭吉は明治2年刊の『西洋事情』に、

 譬へば訳書中に往々自由(liberty)通義(right)の字を用ひたること多しと雖ども

と記している。ここで、rightを「通義」としている。
 だが『学問のすゝめ』第二編(明治6年)には、

 地頭と百姓とは有様を異にすれどもその権理を異にするに非ず

と、「権理」になっている。

 これが『学問のすゝめ』第三編(明治6年)には、

 二編にある権理通義の四字を略してここには唯権義と記したり

とある。rightの訳語が揺らいでいることがわかる。
『学問のすゝめ』第四編(明治7年)になって、やっと、

 人民も稍権利を得るに似たれども、其卑屈不信の気風は依然として旧に異ならず

とあり、このあたりで「権利」になったことが推測できる。
 一方、individualの訳語たる「個人」使用の嚆矢は高山樗牛であることを言ったのは石川啄木である。樗牛の『美的生活論』にその使用例第一号が見られるという。

 青年自体の権利を識認し、自発的に自己を主張し始めたのは、誰も知る如く、日清戦争の結果によって国民全体が其国民的自覚の勃興を示してから間もなくの事であった。既に自然主義運動の先蹤として一部の間に認められてゐる如く、樗牛の個人主義が即ち其第一声であった。(『時代閉塞の現状』明治43年)

 今回は、right、individualに対応する「発明語」の変遷のお話だが、同時に、明治2年と、明治43年の文章、語彙の断層についても例示したと思っている。感覚的には、福沢諭吉の文章は幕末であるが、石川啄木になると、ほぼ現代である。
 この間、たかだか40年であり、この期間で日本語が大変貌を遂げたと思わざるを得ない。

『江戸時代の通訳官』0412

 表題は、片桐一男という人の著作のタイトルである。そこから、2か所を引く。原文は句読点が少なく、読みにくいので、それを補った。
 なんでこの本を読んだかと言えば、通辞、大通辞といった人たち(表題の通訳官のことね)が、近代日本語の基礎をつくったと考えられるからだ。それを知りたくて、この本を読んだわけである。ただ、残念ながらそれに関する収穫はなかったが、別の収穫はあった。
 
 蘭学の分野は、周知の通り自然科学分野が人文科学分野よりも発達したために、単語帳の内容もどちらかといえば貿易品とか自然科学分野の単語が多く、人文科学分野、とりわけ思想的方面の語彙が少ない。しかし、やがて蘭学と呼ばれるよりはむしろ洋学と呼ばれるほうがよりふさわしい幕末のころになれば、思想・文化方面の分野も発達し、当然日本人はそういう分野の近代語と顔を合わせる機会も多くなっていったのである。(『江戸時代の通訳官』片桐一男)

 片桐さん、悪文だなあ。「分野」が、数行のうち、7回も出てくる。でもまあ、文芸書じゃないんで、よしとする。悪文ではあるが、「ブツ」から「ややこしいもの/こと」に発明語の分野(笑)が拡張していったことはわかる。また、蘭学そのものも発展していったあたりの雰囲気が、次でわかる。

 馬場佐十郎が大系的オランダ語文法に立脚した指導をしたことによって、江戸の蘭学界は一変した。斯界の長老杉田玄白は、文化十一年に稿を終えた『蘭学事始』において(後略)(『江戸時代の通訳官』片桐一男)

「大系的」は、例によって写し間違えで、「体系的」だろう。また、『蘭学事始』に関しては、近いうちに言及する。
 先の文中、「単語帳」とあるのに関連しているのは、次である。

『阿蘭陀名目語』(344語)は、蘭日辞典の嚆矢『江戸ハルマ』の訳者・石井恒衛門が作成に関与したとも憶測される。(板沢武雄『阿蘭陀名目語』)

 344語だと、どうしても事物の名前程度にしかならないだろう。
 このころは、文中にあるように「貿易品とか自然科学分野の単語が多」いのはその通りであるが、「自然科学分野」はちょっと言い過ぎ。「博物学的」くらいがちょうどいいあたりだ。つまり、「事物の名前」といったところである。「自然科学分野」と言ったら、体系、システム、論理あたりまで含める必要がある。でないと、自然科学にはならない。
 たまたま、最近「生糸貿易と『絹の道』~桑の都八王子と鑓水商人~」という市民講座を受講したおり、配布された資料のなかに、『英語箋』(万延2年発行)というものの写真があった。鑓水商人の子孫の家で発見されたものだという。内容を見ると、「善キ(goodグード)」「浄キ(cleanクリーン)」「長キ(longロング)」「縫人(シタテヤ)(tailerテーロル)」「酒人(サカヤ)(brewerブルーイル)」など、一対一関係というか、事物―名前の対応が一様にいくというか、そういう単語ばかりである。
 ああそうそう。「蘭学と呼ばれるよりはむしろ洋学と呼ばれるほうがよりふさわしい幕末のころになれば」と上にあったように、万延2年には『英語箋』が出ているわけである。
 横浜開港は安政6年(1859年)だから、その3年後にこの『英語箋』が出版されたことになる。

博物、写真10413

 前回「博物学的」と言ってしまったので、ちょっとそのあたりの事情をお話しする。今回のお話は、『江戸の博物学者たち』(杉本つとむ、講談社学術文庫)に教えられたことである。同書はとてもおもしろい本で、近代日本語採集を始めてから出会ったものだ。それまでは浅学ゆえ、杉本つとむさんも存じあげなかったし、ましてや、ご著作に触れたこともない。
 さて、標題「博物、写真」を、これはいったいどういうことかと思われるかもしれないが、同書で初めて、「博物(学、館、etc)」と、「写真」という近代日本語の出自を知ったわけである。しかもそれは、若干関連していた。
 本題に入る前に、「江戸の博物学者たち」とはどういうことか。博物学は、明治、せいぜい幕末あたりに日本へ輸入されたものなのではないかと疑問を持たれるむきもあるかと思う。とりあえず、それは正しい。
 だが、日本には(中国にも)「本草学」というものがあり、これがまったくぴったりではないが、ほぼ博物学に該当する。「ほぼ」などと頼りないことを言っているが、この「ほぼ」が、なかなか一筋縄ではいかない。
 まず、本草学には、博物学の範囲に加え、「民俗」「言語」などが含まれることも多々ある。ここでも、「多々」などと頼りないことを言っているが、頼りないことを言わざるを得ない理由に、本草学には流儀があるという事情があるからである。自らの流儀を、「名物学」などと称している一派すらある。つまり、本草学には流儀があり、その流派によって、扱う範囲が微妙に異なるわけである。
 貝原益軒を、私は『養生訓』を著した人という程度にしか知らなかったし、その『養生訓』すらも「接して漏らさず」というのしか知らない。そもそも、『養生訓』を読んだことすらない。だから、教養のある人に、「そんなこと(接して漏らさず)なんて『養生訓』に出てこないぜ」と言われたら、「ああそうなの」と答えるしかない。無知を誇っていても仕方ないので先に進む。
 益軒は、本草学が専門ではない。儒家であり、教育者が益軒の本質である。だから、教育=啓蒙の一環として、『大和本草』(宝永六年)を著したのだろう。この書は、李時珍の『本草項目』を下敷きにしたものである。それは、「此書は『本草項目』にのせている諸説のうちで、もっとも必要だと思うものをえらんで、これを要約してまとめた」と述べていることからも明らかである。
 もうひとつ、前述のように益軒が『大和本草』を著したのは宝永六年であり、益軒は寛永七年の生まれというから、このとき、八十歳である。八十歳にして、本編十六巻、付録二巻で十八巻、別に諸品図が二巻ある書物をまとめたのである。見習いたいものだ。
 しかも、専門でないにもかかわらず、本家本元である李時珍を、「本草項目に品類を分かつに、疑うべきこと多し」などと評し、なかなかの鼻息である。

写真、博物20414

「博物」と「写真」が同じ項になっているのをいぶかしむ方がおられるかもしれない。前回は、「写真」にまったく触れず、「博物」だけで終わってしまったし、同じ項にした事情も説明できなかった。
「写真」に至るまで、ちょっと長いが、まずもう一度「博物」から。
「博物」という語の歴史は古い。三世紀ごろの中国で『博物志』が既に著されている。日本列島では、卑弥呼さんがぶいぶい言わせていたころである。日本人はほとんど、字すら知らなかった。だいいち、日本列島はあったが、日本もなく、日本人もいなかった。
『博物志』は張華撰と言われているから、「撰」以前を考えれば、さらに遡れるはずだ。内容は、地、山、水(海や河川)といった自然に加え、服飾などに関する記述もあり、英語で対応するナチュラルヒストリー(自然誌)とは多少範囲を異にしている。だが、自然誌はすっぽり収まっているので、現在の「博物(学)」とほぼ同じ概念であると言っても、それほどの間違いはあるまい。自然誌+民俗学といったところか。
「写真、博物1」で、このあたりと本草学との関連はお話しできたと思う。
 ところで、「写真」は本草学者がよく使った言葉である。要するに「真を写す=写真」である。これは「写生」と同義だ。前回に「別に諸品図が二巻」とあり、これが「写生」「写真」を掲載しているのだろう。
『日本大百科全書』(小学館)には、次のように記載されているという。

 写真という訳語は、幕末の洋学者大槻玄沢がその著書『蘭説弁惑』の下巻所収の「磐水夜話」(1788)のなかで、写生の道具として紹介したカメラ・オブスキュラcamera obscura(ラテン語で「暗い部屋」の意)に、写生と同義語の写真という語を当てて「写真鏡」と命名したことに由来する。

 だが、『日本大百科全書』には悪いけど、「命名したことに由来」は、厳密に言えば間違いであることは、その前に書いたことで明らかである。
 もう一個文句を言うと、洋学者も間違い。蘭学者である。大槻クンは、ショメールの百科事典を翻訳しているが、蘭訳のそれからやっているはず。英語、フランス語とは、それほどの接触はなかったはずである。
 若干余談だが、雑に言えばカメラ・オブスキュラに感光版を取り付けただけのものが暗箱写真機であり、その後、湿板技法が開発された。
 日本に輸入されたのは幕末期の安政年間(1854年-1860年)である。よって、大槻玄沢が言っているのは、まだ感光版でなく、紙に手で輪郭をなぞっていた時代のものだろう。
 上野彦馬は長崎で、下岡蓮杖は横浜で、いずれも1862年に写真館を開業、日本最初の写真家となった。私たちがよく目にする坂本龍馬、高杉晋作を始め、維新の立役者等の写真を撮ったのは、上野彦馬である。下岡蓮杖の写真も、相当数残っている。
 上野彦馬は、舎密学(化学)を学んだ後、写真家になったが、このころは感光版をつくるところから始めたわけで、それで、舎密学である。舎密は音写語で元はフランス語だろう。写真をとりあえずホトガラフと呼んだのと同様である。ホトガラフの漢字表記は寡聞にして知らない。

【Live】『シェアハウス・ロック』の由来0415

 私は、同年代のおじさん、おばさんと3人で、シェアハウスで暮らしている。「ロック」のほうは、『ジェイルハウス・ロック』(エルヴィス・プレスリー)の単なる地口合わせだ。私は音楽好きなので、ついついそうしてしまったのである。あまり深い意味はない。
 4月12日、国立社会保障・人口問題研究所が、2050年には全世帯数のうち2割超が高齢単身世帯になるという推計値を発表した。この推計値には、団塊ジュニア世代の未婚率の高さが影響しているという。
 これは、小泉・竹中改革の最大、最悪の置き土産の影響である。就職氷河期、非正規雇用による労働環境の悪化、その結果としての社会保障制度からの置き去り。この世代は、本当にかわいそうだ。
 よしんば結婚し、子どもに恵まれても、子どもの結婚により老夫婦だけの生活になり、どっちかが死に、それによって単身になる。「推計値」はそれももちろん反映している。
 14日の毎日新聞の1面トップ記事は前述の「推計値」周辺だが、4面に関連記事「高齢者住まい確保に壁」があった。高齢、単身だと住宅を借りにくい。それをサポートする制度、法人なども紹介されているが、一読した限りでは「ないこともない」といった程度である。つまり、まったく十分ではない。
 同じ4面に「おひとりさま」の専門家(笑)上野千鶴子のインタビュー記事が出ており、そこには「社会保障を世帯単位でなく、個人単位に」など、意味のある提言が書かれている。「世帯単位」は与党自民党の、「おまえは戦前か!?」という旧弊、かつ現状を無視した家族観のためである。
 上野は、同記事で「一番恐れているのは、都会で高齢者が孤立し、貧困のうちに取り残されることだ」とも言い、実例としてコロナ禍のもと自宅で治療を受けられずに亡くなる患者が相次いだことに触れ、「あの『在宅療養という名の放置』を見て、背筋が寒くなった」と語っている。能登半島地震の被災地にも触れ、「避難所から半壊の家に戻った途端、支援が届かなくなった。家にいることが自己責任として放置された」という。
 皆さん! と突然演説口調になってしまうが、これが菅義偉の言った「自助、互助、公助、そして絆」の正体なんですよ!
 それから、成田悠輔クン! キミみたいなチンピラが、「高齢者は集団自決しろ」(0301)などと心配してくれなくとも大丈夫だよ。この国では、国家と、それが定めた制度がそうしてくれるから。
 上野千鶴子さんは、記事中で、私なんかにはとてもリアリティのある提言もしている。「増えている空き家を自治体が借り上げ、シェアハウスのようにして低家賃で貸していけばいい」。これは「東京の豊島区が先導して取り組んでいる」が、特筆するくらいだから、それほどは進んでいないのだろう。
 我がシェアハウスの住人は「自助、互助」には取り組んでいるが、もちろん菅が言ったからではない。あんなヤツが言う前から、この生活である。だいいち、首相は「公助」だけを言うべきだ。「自助、互助」を言った瞬間から、政治家失格である。人民に説教をするのが首相の役割ではない。
「ノート」に投稿を始めたのも、いまでこそずるずるとあっちやこっちの暇ネタ、年寄りの日常を書いているけれども、「シェアハウスの勧め」を公表したかったからである。問題意識は、今回の話とまったく重なっており、昨年の7月、8月あたりは、当『シェアハウス・ロック』はシェアハウス関連のお話で終始している。多少でもご興味がおありなら、まとめて投稿しているので、ご一読ください。

【Live】春爛漫0416

 散歩道としてよく使う遊歩道では、ソメイヨシノがほぼ散り、葉桜になった。
 気の毒な名前ではあるものの、花自体は可憐なオオイヌノフグリはまだ咲いているが、そろそろ終わる。青系統の他の野草、ブドウムスカリ、ムスカリアルメニアカムももうそろそろ終わりだ。
 黄色系統で言うと、カラスノエンドウが咲き始めた。タンポポは強い花なので、このあたりでは2月中から咲いている。
 シロツメクサは、もう真っ盛りと言っていい。これからは、遊歩道の散歩が楽しみである。
 これらの名前は、スマホの検索機能で知った。「カメラのアイコンじゃないほう」(これは「検索窓」とでも呼ぶのだろうか?)で写真を撮ると、自動的に植物名(だけじゃないけど)を教えてくれる。
 ちょっとAIの話になるが、いま世間で雑にAIと呼ばれているものは、私らの世代では「ニューロコンピューティング」と言ったほうが馴染みが深い。これは、そのシステムに「形」を与えてやるとなにやら反応して返し、その反応が正しいと思えたらシステムに「それでよろしい」と返してやることで、だんだんとシステムが利口になっていくというものである。スマホで言えば「この答えは参考になりましたか?」に、「はい/いいえ」で答えることになる。これをニューロコンピューティングでは「教師信号」と呼ぶ。
 人間のトップクラスに匹敵するようになったAI囲碁も、ディープラーニングとか言っているけど、あれもニューロコンピューティングだと、私はにらんでいる。
 そのうち、このあたりの話をしようと思うが、とりあえず春爛漫のほうである。こっちのほうが大事だ。
 我がシェアハウスのベランダに置いた睡蓮鉢では、ひと月ほど前に買ってきたホテイアオイの株がひとつ増え、3株になった。これからまだまだ増えるはずなので、5月あたりから始まるメダカの産卵期には間に合いそうである。ホテイアオイの根っこは、とてもいい産卵床になるのである。
 もうひとつ、ヤネバンダイソウ(英名はハウスリーク)が相当に増えている。これは、八王子に来たてのころ、フリマでお婆さんから買ったものである。6年くらい前のことだ。それがどんどん増えた。いま、6鉢くらいになっている。
 ヤネバンダイソウも、ホテイアオイ同様、「腕」を伸ばし増えていく。あの「腕」を正式にはなんと呼ぶのだろう。英語では「アンテナ」と呼ぶような気がするが、定かではない。
 そうそう、土の再生がそろそろ終了するので、プランターに移し、ディルシーズも撒かなければならない。これは、「疲れた」土に糠を混ぜ、腐葉土も混ぜ、黒いゴミ袋に入れてお日さまで温め、バクテリアを増やすことで再生するわけである。
 遊歩道では、もうじきホタルブクロが咲く。これは毎年咲く場所をおぼえているので、散歩のたびに「今日は咲いているかな」と探すのが楽しみである。
 これからひと月くらいは、一年中で一番いい季節だ。 
【追記】
 昨日の記事に「団塊ジュニア世代の未婚率の高さが影響している」と書いた。これは毎日新聞の記述そのままなのだが、最初に読んだときに私はよく理解できず、意味が通じた後も違和感が残っている。私が書くんだったら「結婚率の低さ」とするだろうと思う。これも、ちょっとなぜなのかを考えたいところだ。

江戸語・東京語・標準語0417

 近代日本語シリーズに戻る。
 表題は、『江戸語・東京語・標準語』(講談社現代新書、水原明人著)による。この本も、近代日本語成立事情が書かれているのではないかと思い、読んだものである。ただし、近代日本語成立事情に関してはあまり具体的な収穫はなかった。それでも、周辺事情としていくつか参考になるところはあった。

(しかも、皮肉なことに、)幕末から明治初年にかけてとうとうと流れ込んできた欧米文化と外国語が、逆に漢語の隆盛をもたらしたのである。というのは、こういう欧米の新しい思想に裏づけされた外国語の内容は、それまでの日常生活語であった「江戸ことば」とあまりにもかけ離れていてなじまず、翻訳する場合にどうしても漢語系の表現に頼らざるを得なかった。当時、数多くの知識人によって日本語に移し替えられた外国語、例えば、「演説(speech)」、「自由(freedom、liverty)、「権利(right)」などはすべて漢語に新しい意味を付して造語、あるいは転用されたもので、その頃の庶民の日常生活語である「江戸ことば」からつくられたものではなかった。(p.58)

 ここでは、「発明語」のことを「漢語」と言っている。だが、「漢語」はたぶん正しくはない。せいぜい、「和製漢語」くらいか。その後に出てくる「漢語系の表現」はぎりぎりセーフだが、それでも雑と言えば雑。この時代に、日本語をつくった人たちへの敬意が足らない気がする。
『シェアハウス・ロック0408』で「society」を「社会」としたのは福沢諭吉(だが異説もあると申しあげたが、その異説のひとつが以下である。

 英語の「スピーチ」に「演説」という訳語をつくったのは福澤諭吉だという定説に対して、宮武外骨が異説をとなえている。それ以前にも「演説」という言葉はあったし、その意味も福澤のとなえた「演説」と内容が似ているというのである。(p.78)

 タイトルの最後、標準語については以下の記述があった。

 岡倉天心の弟で、日本の英語教育の先駆者として知られる岡倉由三郎は、standard languageに対する訳語として「標準語」ということばを用いた、言うなれば「標準語」という用語の生みの親ともいうべき人物だが、この標準語ということばが公用文書の中に初めて登場したのは明治三十五年(1902)のことだと言われている。(p.105)

 つまり、文部省の国語調査委員会が国語、国字の基礎的なデータを調査することになり、その調査の指針ともいえる文書のなかに、方言と対置する形で「標準語」という用語が登場したわけである。
 私の記憶では、「標準語」の中身は、東京の山の手で話されている言葉ということだったと思うが、この「標準語」も日本の言葉を壊した。今回は長くなったので、「どう壊したか」については言わないが、そのうちに言いたくなるかもしれない。

渡辺崋山0418

 渡辺崋山は「蛮社の獄」に連座した。天保10年(1839年)5月のことである。これは、言論弾圧事件だ。高野長英、渡辺崋山などが、モリソン号事件と江戸幕府の鎖国政策を批判したため、捕らえられ、獄に入るなど処罰された。
 天保年間(1830年代)には、蘭方医グループとは別に、蘭学の研究とその新知識の交換をするグループが成立しており、渡辺崋山はその中心人物であった。高野長英、小関三英などもそのグループ内である。
 国学者たちは彼らを「蛮社」(「蛮学社中」の略)と呼んだ。社中は、坂本龍馬の亀山社中の社中であり、「会社」と呼ばれるようになるのももう一息である。「社中」という言葉自体は後年まで残り、有名どころは「桜川ぴん助社中」(だいぶ違うけどね)であるが、お囃子のグループなんかにも多い。私は、坂本龍馬よりも桜川ぴん助のほうが好きだ。
 話を戻す。
 当時はまだ洋学ではなく、蘭学の時代である。この時代の熱気を写したのが『渡辺崋山』(杉浦明平)だ。これは分厚い本(上下巻)で、しかも上下段になっている。図書館で借りて読み、この時代の熱気が感じられる部分を書き抜いたものが以下である。
 写し間違えはないようだが、上巻だか下巻だかは書いていない。どっかしらで変なことをやるなあ。困ったもんだ。

 まず、p.68下段に「大通詞末永甚左衛門、小通詞吉雄忠次郎」の名前があった。通辞の名前は別の本でも拾っているので、そのうちに「通辞の世界」が見えるようになるかもしれない。
 次の書き抜きは、江戸ハルマ(辞書)に関連する。                                                
 わしが蘭学の勉強をはじめたのは、ちょうど『江戸波留間』三十巻が完成したところでな、『波留間』には単語八万余りある。わしはその八万語と、その約語を三回謄写したよ。それを売って桂川先生のところで勉強したのさ。(吉田長淑のセリフ、p.85下段)

「単語八万余り」は本当だろうか。千語で日用は足り、一万語でけっこう複雑怪奇なことを言ったり書いたりできると聞いたことがある。
 しかも、その他の辞書もそれなりに流通していたようなのだ。

 それでも小石先生のような蘭方医が相当流行しており、藤林泰助翁のように『訳鍵』を編集された学者もひかえている。この蘭和辞典にはハルマにおとらずおれもお世話になったものだな。(高野長英の回顧譚(地の文)、p.287下段)

 さらに、蘭和辞典の校閲のようなことをやる動きまであったことが、次でわかる。文中「述語」とあるのは「術語」のことか。

(青地林宗(=町医者)は)日本一かどうか知らんが、こつこつじぶんひとりで勉強して、天文台の訳員もずっとやっている。去年の暮れには同士会を起して、オランダ書の翻訳が出たら、正確であるかどうか、各種の述語が訳者ごとにちがっているのを適正なことばに統一しようと提唱しましたが、よほどの自信がなくっちゃこんな提案はできませんよ。(高野長英のセリフ、p.392上段)

 小関三栄は出羽庄内地方鶴岡の生まれなんで、杉浦明平さんによって、訛らされている。
 高野長英が、「当代日本一の蘭学者は、小関三栄、幡崎鼎、青地林宗というところです」と言ったのへ、

 おらさのろくてだめだっす。長英君は訳述敏捷で文辞明達だもんな。おら、二十年かかって、やっと小冊子『西医原病略』一冊上梓したばかりだげんど、長英君さ、『シケイキュンデ』も『蘭説養生録』も『泰西地震説』も十日たらずでまとめてしまったなっす。それに今年も『医原枢要』内編五冊を脱稿して、もう彫りにかかっとるんないがっす。(小関三栄のセリフ、p.393)

『渡辺崋山』(杉浦明平)は小説なので、ディテールは信用できないまでも、大枠は信用でき、また、当時の蘭学熱は十分に伝わってくる。好著である。『朝日ジャーナル』に連載されていたと記憶する。

『蘭学事始』0419

 蘭学のトップランナー杉田玄白は、高齢になり、自らの記憶する蘭学草創期のことを書き残そうと決意し、文化11年(1814年)に書き終わり、高弟の大槻玄沢に校訂させ、文化12年(1815年)に完成を見る。
 内容は、戦国末期の日本と西洋の接触から始まり、蘭方医学の発祥、青木昆陽や野呂元丈によるオランダ語研究など。クライマックスは、オランダの医学書『ターヘル・アナトミア』翻訳の苦心談である。
 前野良沢、中川淳庵らと杉田玄白は小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、『ターヘル・アナトミア』の図版が正確なことに感銘し、翻訳を決意する。明和8年(1771年)3月4日のことである。
 杉田玄白より前に、誰が、何故腑分けなんぞをしたのかと疑問をお持ちの方がいらっしゃると思うが、腑分けし、内臓を売るためである。薬にしたそうだ。気持ち悪い話でごめんね。これを私は、首斬り浅右衛門の伝記めいた本で知った。肝臓なんかはずいぶんいい値で売れ、山田さんちはけっこう金持ちだったという。山田さんちは、代々浅右衛門を襲名し、最後の浅右衛門さんは、明治になってから首を斬っている。浅右衛門さんちのお墓は四谷にあり、私は四谷にいるころ見に行ったことがある。お墓を見て回るのは、私、わりあいに好きなのである。この話はそのうちに、ぜひしたいと思う。
 さて、辞書さえない環境下で翻訳を進め、安永3年(1774年)に『解体新書』は刊行された。
 私は、小学校のころ、『解体新書』は「フルヘッヘンド」とともに知った。この単語「フルヘッヘンド」の意味が分からず、苦心のすえ「うずたかい」という意味だと推測するにいたる話である。
 この逸話は、菊池寛の大正10年(1921年)の小説『蘭学事始』が元ネタだそうだが、酒井シヅさんという方が、1982年に『ターヘル・アナトミア』を原典から翻訳したところ、「フルヘッヘンド」は『ターヘル・アナトミア』中にないことが判明したという。菊池クン、盛りましたな。
 さて、本題である。『蘭学事始』に出てくる近代語は以下であった。
 物産、直対接話、実験、臨時、治療、決定(けつじょう、でなく)、訳語、解剖、翻訳、解体(旧、腑分け)、蘭学(新名)、自然(automaticaly)、言語、西洋、学生(がくしょう)、外科、理解(表記は理会)、精密、翻訳、細密(蜜)、官能、治療、比較、企望(希望)、出版、(我医道)発明(のためなれ八)、志願、地理学、博覧強記、言語、討論。
 ただ、これは私が近代語と思ったものであって、私は無学なので、近代語じゃない言葉も混ざっているかもしれない。無知は悲しい。

コンピュータ語/カタカナ語0420

 江戸時代の蘭学者周辺の熱気を書いていて、何回か「既視感」にとらわれた。よくよく考えたら、なんのことはない。約二百年後、自分も同じような熱気のなかにいたのである。
 私は30歳前後から、コンピュータ関連の編集/出版の仕事をしてきた。1980年ごろ、日本にはいっきにコンピュータとその関連がやってきて、「第二の黒船」のような状況を呈していた。40年ほど前のことだ。
 まだコンピュータは8ビットだった。当然漢字は扱えない。アルファベット、カタカナがせいぜいだった。
 本体と一緒に、どっとカタカナ語もやってきた。たとえば、キーボード、ディスプレイ、メモリ、ファイル、インタプリタ、コンパイラ、OS(オペレーティングシステム)、プリンタ、キャラクタ、ビット、バイト、ビットマップ。きりがないのでこのへんでやめるが、優にこの百倍はあっただろう。ただ、これらは事物と言葉が一対一対応なので、罪は軽い。カタカナ語のままでもなんとかなる。一緒に書いたが、OSはMS-DOSとセットだったんで、2年遅れくらいだった。
 このうちOS(基本ソフト)、プリンタ(印刷機)あたりが「日本語」としてかろうじてこなれている程度であると思う。それ以外は、いまでもたぶんカタカナ語のままだろう。
 1970年ごろのファッション関係の文章も同じようなものだった。
 こっちは私まったく暗いので、ネットで拾ったものをちょっと紹介してみる。「定番のトレンチはアイコニックなカナージュステッチのキルティングベストを重ねて、無骨なブーツでアヴァンギャルドなスパイスをプラス、タイトなシャツとパンツに対しオーバーサイズのポンチョをラフに纏ったバランスが素敵」。私なんかには、ほとんど「なにがなんだか状態」である。とは言っても、カナージュステッチ以外は、見当くらいはつく。それに、「アヴァンギャルドなスパイス」ってなんだ。使い方ヘンじゃないのか。「なにがなんだか状態」の割には、言いたいこと言ってるなあ。
 コンピュータ語に戻ると、どういうわけか入力(input)、出力(output)は最初から日本語だった。ただ、日本語としては、少なくとも私には違和感があった。いまでもある。
 明治時代の小説を読んでいて、書生がやたらカタカナ語を頻発するシーンに遭遇したことがある。書名も作者もシーンも忘れたので、でまかせに再現すると、「君も、もっと君のライトをインシストし給へよ。リベルチに生き給へ」みたいな具合である。
『明治時代の言語の断層0411』で、rightを福澤諭吉が「通義」と訳し(『西洋事情』明治2年)、ついで「権理」(『学問のすゝめ』第二編明治6年)とし、次に「権義」(『学問のすゝめ』第三編明治6年)とし、表記も、ご本人の頭のなかも揺らいでいたことを紹介した。「権利」に落ち着いたのは、明治7年(『学問のすゝめ』第四編)のことだ。こういう苦闘をよそに、「ライトをインシストし給へよ」などというオッチョコチョイもいたのである。
 もっとも、そう評する私も、「コンパイルした結果は一度メモリに収まるが、それはディスプレイで確認し、ランした後にデバグすればいい」などとオッチョコチョイを書いていたんだから、人のことは言えないなあ。

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