シェアハウス・ロック2402中旬投稿分

老人ネタの再開(関節リウマチ)0211

 前にお話しした「エース出版」のメニュー中「リウマチ性多発筋痛症」は、「多発筋痛症」がわからないものの、私は立派な関節リウマチ患者である。
 母の介護がだんだんとシビアなものになっていき、主治医が「一度入院して、様子をみたほうがいいですね」と言い、入院の日取りまで決めてくれた。ところが、その日をカウントダウンするようになってから母はみるみる弱り、入院の当日、私が朝4時に目が覚め、恒例の体温測定をしたところ、体温計が反応しないくらい体温が下がっていた。これはちょっとマズい。6時までは我慢し、6時ちょうどに医者に電話をかけた。結果、救急車で緊急入院ということになった。3時間だけ「緊急」になったわけである。
 入院させて家に戻ったところ、両手の甲の部分が痛い。それまでの介護で、私は腱鞘炎になっており、それが悪化したのかと思った。
 翌朝起きたら、手の甲から肘のちょっと下まで、普段の太さの3割増しくらいに腫れあがっていた。両腕とも、である。
 あまりのことなので、新宿厚生年金会館のすぐそばの整形外科医に駆け込んだ。ここは、以前お話しした「小さいけれども大事故」以来、馴染みになっていたのである。嫌な馴染みだな。
「腱鞘炎でしょう」ということで、ここに半年ほど通ったものの、まったく改善されなかった。整形外科医はさすがにおかしいと思ったのだろう、東京女子医科大学病院に紹介状を書いてくれた。
 そこで、私はめでたく「関節リウマチ」と診断されたわけである。
 この整形外科医を誤診と責める気持ちはまったくない。だいたいがリウマチはお婆さんの病気であり、当時私はまだ50代であった。ギリギリ爺さん予備軍といったところである。誤診するのが順当であると思う。
 関節リウマチのまま、私はその後約1年半母の在宅介護を続け、母が亡くなったので四谷に移り、そこで12年を過ごした。この12年間も、恒例のように年2回程度はリウマチがひどくなった。
 八王子に移り、リウマチ発作(と言うんだろうか。ひどいときはそう呼びたいほどである)はほとんど出なくなった。
 リウマチは自己免疫疾患である。歳をとって、免疫力が衰えたのか、あるいは四谷のような街の真ん中より八王子は太陽が強く、寒暖差が激しいのがいい影響になったのかよくわからないが、だいぶ改善された感じがする。
 次回は、リウマチの痛みについてお話しする。お楽しみに。

リウマチの痛みについて0212

 リウマチの痛みはなかなか面白い。
 通常の痛みは、なにかの結果としての痛みである。例えば、指を切るとその結果痛い。ところが、リウマチは自己免疫疾患なので、原因があるようでない。いきおい、痛みにとりとめがない。では、たいした痛みではないのだろうとお思いかもしれないが、痛いときは本当に痛い。ひどい歯痛に匹敵する。歯なら部分であるが面積も広いので、その分つらい。
 私は四谷にいたころ、肘から先を切って捨てたいとすら思ったことがある。切らなかったのは「幻肢」という現象を知っていたからだ。切って捨ててまで「幻肢」現象で痛みに襲われたら目も当てられないのでやめたのである。まあ、子どもの他愛のない冗談なので、お忘れいただきたい。
 こういう痛みに襲われたら、眠ることすらできない。ロキソニンを飲んで、2時間程度ウトウト出来ればせいぜいで、2時間経ったら薬が切れ、痛みで目が覚める。こっちは冗談ではない。
 幸い、こういう痛みは年に2回くらい(でも、1か月は続く)であった。普段は、手首に若干の違和感がある程度だ。
 リウマチ段階に入ると、「手袋感」がまず最初に来る。手首から先に、手袋をしているような違和感がまず来るのである。この「手袋感」には段階があり、「手袋感」が進むと「軍手感」になり、さらに進むと「皮手袋感」、次に「ゴム軍手感」になる。ゴム軍手は、えげつない肉体労働をやったことのない人には、まずわかるまい。
 ここまでは、その段階から回復することもある。
 次に来るのが「チリチリ感」である。この段階がなかなか面白い。チリチリ、キリキリ、電気が走り、鈍痛になったり、さまざまな痛み方をする。「なるほど、そう来ましたか」と思うこともしばしばである。このあたりまでは、痛いながらも手は動かせる。
「手袋感」「チリチリ感」の後は、「ド感」である。いきなり肘から先が腫れ、痛みで手を動かせなくなる。手を動かさなくとも痛いが、動かしたらもっと痛い。手を使った仕事がまったくできなくなる。
 それが片手なら、私は左手でも箸を使えるので、どうということはない。ただ、痛むほうの手は、動かさないでも痛い。面白いのは、右手が痛いとき(このごろは、右手が痛くなることが多い)左手でなにかをやったときにも、右手に痛みが走ることである。「どこやらで繋がってるんだなあ」としみじみ思う。
 両手にリウマチが出ると、悲惨の一語である。靴下すら履くのが困難になる。
 ただ、八王子に移って来てからは、「ド感」は去年の12月にあっただけである。八王子の気候のおかげか、あるいは隠居生活気分になったためのストレス減のおかげか、共同生活で食生活が改善されたおかげか。
 もうひとつ、去年の「ド感」で、使い捨てカイロを肘から先に2、3個貼ると回復が早いことを発見した。使い捨てカイロのおかげで、12月15日に「ド感」が来て、29日には治った。
 次の「チリチリ感」が来たときには、その段階から貼ってみようと思って、手ぐすねをひいている。
 

【Live】『りえさん手帖』0207の続き0213

 前回は、スポーツ枠で中央大学ラグビー部に入学した連中に、教授が「合格点をとらないと進級させません」と言い、連中がぶっ飛ぶという手に汗を握る場面で終わってしまった。「自分の名前以外」に唯一書ける英文「I study English」を書いて合格した「私」と、この「私」に「おまえすごいな」「オレにも教えろ」と言ってきた連中がどうなったかが気になるところである。
 当『シェアハウス・ロック』では、その後、長嶋茂雄さんの話になり、流しの新ちゃんの話になり、大が一つでは足らない大親友のタダオちゃんの話になった。どうも、年寄りの話てえのは(ぷっ)、とりとめがなくっていけません。これは三遊亭圓生の物真似である。字で書いちゃっちゃあ、面白くもなんともない(ぷっ)。ほら、言った先からとりとめがない。
 そうそう、「私」の話だった。
 連中、すなわち同級生部員25人中20人が留年してラグビー部からいなくなったところから今回(2月12日掲載)は始まった。中大ラグビー部が弱くなったのは、この教授のせいだな、たぶん。
「合格点をとらないと進級させません」は相変わらずで、「私」は、なんとかしてくれと猛タックルをかけた。ラグビー学部に推薦入学したほどの「私」だからタックル効果はあって、根負けした教授は紙片を渡し、「じゃあ、これをテーマに論文を書きなさい」と折れてきた。「私」は、「論文」がわからず、「ろ?」と2回も聞き、教授は泣きながら「作文でいい」と答える。
 それから「私」は、「毎日毎日、人生で一番字を書きました」と振り返る。
 ああ、余談だが、日大相撲部を卒業して横綱になった輪島さんの卒業論文は、「チャンコ鍋のつくり方」だったそうだ。「私」も卒業したようだから、卒論のテーマはなんだったのだろう。気になるところである。
 それはともあれ、「私」はどうなったかと言えば、現在は映画の名プロデューサーになりましたとさ。メデタシメデタシ。
 この漫画『りえさん手帖』は、西原理恵子さんが書いている。言いそこなうところだった。
 そう言えば、私が30代のころ、つくっていたコンピュータの雑誌でとり上げようと、『さよならジュピター』(映画)の資料をもらいに東宝に行ったことがあった。原作者の小松左京さんに連絡をとり、いろいろとお話いただき、それは見開きの記事にしたのだが、小松さんの手元には写真がなかったのである。それで、小松さん経由で東宝の宣伝部に行って、めでたく写真は借りられたのだが、対応してくれたプロデューサーが、どうもこの「私」っぽかったなあ。当然、「っぽい」だけで、まさか当のご本人ではないだろうけど。
 もしかしてビンゴだったら面白いのだが、もう調べる手立ては皆無である。
 
 
ぜんそく、CОPD0214

 老人ネタを、持病の項から攻めている。本日はもうひとつの持病のお話である。
 私はヘビースモーカーなので、30歳あたりから慢性の上気道炎だった。ふだんから咳がひどい。3.11から少したって、当時住んでいた近くのハンバーガー屋でコーヒーを飲んでいたところ、いつになく咳がひどくなった。その席は隙間風が入ってくる位置なのでそのせいかなと思い、家に帰った。
 その夜中、息苦しくて目が覚めた。横になっているより縦になっているほうが楽なので、椅子に座ってじっとしていた。私の長男が重篤な小児ぜんそくで、彼に付き合っていたので、「ああ、これはぜんそくだな」と見当がついた。
 このときが初めてのぜんそく発作なのだが、すごいもんだね。じっとしていればまだなんとかしのげるのだけれど、ちょっとでも動いたらもういけない。窒息死するんじゃないかという状態になる。
 このときは、朝の6時まで我慢し、我慢しきれなくなったのでタクシーで東京女子医科大学病院に行った。
 救急医がいい人で、「インタールの吸入で治ると思います」と言ったら素直にやってくれて、それで治った。だが、呼吸器外来に行くことを勧められた。勧められるままに行ったのだが、スピリーバという吸入薬と飲み薬二種類を処方されただけで終了。検査もなし。問診だけ。だから、しばらくして受診をサボるようになってしまった。
 二度目の発作は、それから約一年後だった。このときも前回と同様だが、救急車で救急外来に行った。自分が患者で救急車に乗ったのは、このとき初めてである。ちょっと嬉しかった。
 頑張って救急車を使わず、うっかりタクシーなんかで行ったら、救急外来で待たされるからね。二回目なので多少は学習したわけである。だから、本当に緊急なら救急車がいい。
 ただしこのときは、救急担当医がタコだった。前回同様、「インタールの吸入で治ると思います」と言ったのだが、聞き入れない。「血液検査をしてからだ」という。
 ところがこの血液検査は、鼠径部から血を採るものだった。痛いのなんの。それで痛い思いをして血液検査をしたものの、処置はインタールの吸入。だから言っただろうが、このタコ。
 このときも、呼吸器外来の受診を勧められて、行ったはいいが、前回の呼吸器外来の医者と同一人物。こいつが粘着質で、「私、もう来ないでいいって言いましたっけ。ネチネチネチネチ」。あー、うるせえ!
 八王子に移住して即、呼吸器外来分は、駅前のクリニックに変えた。このクリニックがなかなかのところで、我がシェアハウスでは、私が先遣隊になり、おばさん、おじさんの順でここのお世話になることになった。
 ぜんそくも、リウマチ同様に自己免疫疾患であり、ぜんそくもリウマチ同然になんらかの理由で改善されたのか、三度目の発作は、おかげさまでまだない。
 CОPDのほうは、スモーカーなので、あまり変わらない。でもまあ、死ぬまで呼吸ができればそれでいいんで、それほど気にしてはいない。

「地域医療と、大学病院の医療は違います」0215

 駅前のクリニックの呼吸器の医者はなかなかメリハリのきいた人物で、まずまずである。まずまずは100%ではないということだ。どこがダメかと言えば、禁煙を勧めることである。勧めると言えば聞こえがいいが、あれは命令だな。
 初めて言われたときに、「でも、東京女子医科大学病院では、そんなこと言われませんでしたよ」と抵抗の意志を表明したのだが、「地域医療と、大学病院の医療は違います」とキッパリ。
 その医者はちょっと強面なので、「どう違うんですか」とは聞けなかった。もっとえげつない答えが返ってくるかもしれなかったからである。
 禁煙を通告されたその日の夕食の席で、この件をおじさんおばさんに相談した。
 おばさんは、十二指腸潰瘍で下血し、救急車で病院に搬送されたときに、「お酒か煙草か、どっちかをやめたほうがいい」と言われ、しばし考えたすえ、「煙草をやめます」と答えた前科がある。「しばし」の間に考えたことは、「飲み友だちというのはたくさんいるが、吸い友だちというのはひとりもいない」ということであった。さすが、母親の背に背負われ、哺乳瓶で酒を飲みながら競馬場に通ったというだけのことはある。
 おじさんは、「ぼくは医者に嘘をつくのはまったく平気だ」と豪語した。さすが成人病のベテランだけのことはある。おじさんは、歩く成人病なのである。
 私は、相手が医者であれ、警官であれ、いちおうは人間なのだから、嘘をつくのは嫌だ。子どもたちには、常々、「泥棒は噓つきの始まり」と教育してきたのである。嘘はつかなくとも生きていけるが、なんかの拍子で泥棒をしないと生きていけないハメになることはある。これは、私の、かなり基本的な道徳律である。
 だが、おじさんの言葉で、私は相当に気が楽になった。だから、その後、医者に「煙草は吸ってませんね」と聞かれるたびに、「はい、吸ってません(ほとんど)」と答えるようになった。(ほとんど)は、聞こえないように言う。
 だが、私にも多少は良心の尾てい骨くらいはあるので、本数を減らす工夫はした。
 それまではロングピースを一日に2箱近く吸っていたのだが、手巻きのものに変えた。これだけで、本数は半分近くになった。まず、寝起きの一本がなくなった。起き抜けに巻くのは面倒くさいのである。次に、歩き煙草がほぼゼロになった。歩きながら巻けないからである。なにかやりながら吸うこともなくなった。その「なにか」を中断しなければ巻けないからである。
 ロバート・デ・ニーロが映画(題名は忘れた)のなかで、「手巻きで煙草をおぼえ、それがシガレットになり、いまじゃあ電子たばこだ」と嘆くセリフがあったが、私は、それに逆行しているわけである。電子たばこは吸わなかったけどね。ああ、一回だけ、自衛隊員の五郎ちゃんにもらって吸ったことがあった。これじゃ、吸っても吸わなくてもおんなじだと思った。

『老いたら好きに生きる』0216

 持病シリーズで露払いは終わったので、いよいよ本編に突入し、老いに向き合う。
 表題は和田秀樹さんの著書名である。「健康で幸せなトシヨリになるために続けること始めることやめること」という副題がついている。和田さんは精神科医であるが、老人医療の専門家のようで、そういった著書がたくさんある。
 この本は、頻繁に書籍広告が出る。その書籍広告には、通常下記の項目が書かれていて、内容に沿っているのだと思われる。例によって、項目に印を付ける。

・肉を食べて健康長寿を引き寄せる(〇)
・しっかり噛めば脳も見た目も若返る(△)
・酒とタバコはほどほどに楽しむのがいい(◎)
・入浴はぬるめのお湯に10分程度浸かる(〇)
・1日30分ゆっくり歩く(〇)
・太陽の光を浴びて睡眠の質を向上させる(〇)
・深呼吸でイライラを撃退(△)
・笑いは認知症予防に効果あり(△)
・メモ魔になれば物忘れが減っていく(〇)

 わりあい優等生だな。老人生活の優等生。
「肉を食べて…」は、シェアハウス効果による。私は、肉が嫌いなわけではない。しかし、敬虔な仏教徒なので(冗談です)、なるべく自分からは食べないようにしているのだが、おじさん、おばさんは肉食獣なので、頻繁に食べる。夜は同一メニューだから、お付き合いして食べることが多いのである。
「酒とタバコは…」は、十二分にほどほど楽しんでいるので、心配はあるまい。
「深呼吸で…」が△なのは、まず、私はそもそもイライラしないからである。イライラしないどころか、機嫌もあまり変わらない。というか、機嫌ってよくわからない。それほど一定しているのである。まあ、体質だろう。
 30歳のころ、階段を登りながらモーツァルトを口笛で吹いてたら、知り合いに「今日はご機嫌だね」と言われ、ビックリした記憶がある。「機嫌」などを考えたことは、それ以前にはなく、それ以降もない。いつもおんなじだと自分では思っているのである。
「笑いは…」は、落語を聞くときくらいなので、△。「メモ魔」はその通りで、なにかと言えば自分あてにラインを出す。だから、ラインの私の名前のところには、これから調べたいこと、気が付いたこと、やるべきこと等々がいっぱい書いてある。だから、物忘れ、認知症は大丈夫だろう。ただ、これから、物忘れをしたことすら忘れてしまうようになってしまうだろうから、油断はできない。

アッチのほうがナニになってくる0217

 74歳にもなると、ちょっとアッチのほうがナニになってくる。いま、あらぬことを考えませんでした? 今回の話はアッチの話ではなく、アレの話である。
 おばさんは、この1年くらい、会話の相当な部分をアレで済ますようになってきた。たとえば、前後の脈絡なしに、「今日は、ちょっとアレをやっといてもらわないと」とかおっしゃる。「アレをナニして」まで、もう一歩である。
 このときに、「どのアレですか?」などとお伺いを立てようものなら、もう大変。十言くらいでは済まない罵詈雑言が降って来る。おばさんは観音さまのような方なのだ。観音さまにもいろいろあるが、罵倒観音である(『シェアハウス・ロック2307投稿分』参照)。
 コレ、ソレは通常目の前にあるので、それなりに見当はつくのだが、アレはさすがにちょっときつい。ついつい「どのアレですか?」と聞いてみたくなるのだが、おばさんのような方にはこれは単なる質問ではなく、揶揄のように聞こえるに違いない。揶揄と聞いてしまうので、いきおい過剰防衛を通り越し、激烈攻撃になるようだ。
 たったいまも、私の部屋の戸口のところからなかをうかがっているので、「なにを監視してるんですか?」と聞いたところ、「ムハハハ」と高笑いをして去って行った。監視、弾圧、強権、強圧。そういうあたりがお好きなようである。威圧系だからな。私が好きな言葉は、謙虚、深慮、謙遜といったあたりで、一番好きな言葉は矜持である。
 でも、なんでアレになるのかなあ。私は、自覚的には全然アレになっていない。
 考えるに、私は口が重いほうだからではないか。毎日毎日、ズルズルとこんなことを書き散らしていて「どこがや」とお思いかもしれないけれども、私はほとんどしゃべらない。本当だよ。しゃべる必要がないときは、まったくしゃべらない。書くのとしゃべるのとでは、回路が違うんじゃないだろうか。
 そう言えば、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんは、よくしゃべる人だった。私は「言語の下痢状態」と名付け、仲間にはそれを広布したが、みんな納得していた。あるとき、「アイツは口でも、頭でもなく、腰でしゃべっている」と言ったら、それを聞いたヤツは、笑い出して膝に力が入らなくなり、しゃがみこんでしまったことがあった。「腰でしゃべる」が正鵠を得ていたんだろう。俗に言う「ツボに入る」というやつである。ツボに入って膝がゆるんだんだろうなあ。
 タダオちゃんも生きていたら、もう相当アレになっていたことだろう。つまり、私の仮説ではよくしゃべる人間が、たぶん「アレ状態」になるんだろうと思う。アレをしゃべっておきたいと考える速度に、単語を頭のなかで検索する速度が追い付かないんではないか。
 考えてからしゃべる習慣がある人間は、単語の検索終了後しゃべるので「アレ状態」にならず、口から生まれた桃太郎みたいな人が「アレ状態」になるのだろう。
 今回は、年を取ると、名詞がでなくなり、アレで強引に済ますようになるという話だった。
 次回くらいから、アッチやコッチが衰えていくという話をしていくが、ワイセツ関係、ハイセツ関係、風呂関連はなるべく避けようとは考えている。老人のそれら関係、関連は、気持ち悪いを通り越して、不気味だろうと思うからである。
 
 
代謝が悪くなる0218

 たとえば、友だちの引っ越しなどを手伝い、普段使わない筋肉を過剰に使うと、20代くらいでは翌朝体のあちこちが痛くなる。
 これは、誰でも経験することだろう。ここから先は、若い人にはわからない話になっていく。
 まず、40代くらいになると、翌日ではなく、翌々日くらいになる。前日、先述のような労働をしても、翌朝にはなんともない。だから、うかうかと「オレも体力が戻ってきたのか」などと考えるのだが、とんでもない。翌々日くらいにあちこちが痛くなる。
 さらに、50代ともなると、三日先、四日先に出てくるようになる。
 これが60代に入るともういけない。重労働と疲労との関連がわからなくなり、「なんかこのところ調子がわるいなあ」と感じ、つらつら考え、「ああ、あのときのアレの影響かな」などと思い当たるようになる。痛くはならない。だるいだけである。
 若いときは代謝がいいので、翌日に、乳酸、尿酸などを分解しようとして、また疲労から炎症が起こり、それを解消しようとしてせっせと代謝系が働く。ところが、年を取ると代謝系が衰えるというか、鈍くなるというか、代謝に時間がかかるので、とんでもないときにあちこちが痛くなったりするのだろう。ここで代謝と言っているのは、体内の化学反応や、あるいは酵素などによって起こることを指す。よく、脳の働きは電気的なパルスによると言われるが、実際は化学反応でイオンを発生させ、それが電気として振舞うのである。それを代謝と言っているわけだ。
 そういえば、私の義父は、私らの結婚当時すでに70代であったが、「この年になると、風邪を引いているのかどうかわからなくなる」とよく言っていた。このごろ私も思い当たるようになってきたのだが、これも代謝が悪くなっているからだろうと思う。若いうちは風邪をひくと、即熱が出て、それにつれ代謝もよくなり、それで治る。ところが、年を取ると代謝が衰えているので熱が出ない。
 ああ、そうそう、熱で思い出した。年を取ると体温が下がってくる。これも代謝が衰えているからである。
 この代謝は、すべてに関係するような気がする。体内時計というか、心理的時間というか、これは肉体的時間と言ってもたぶん同じことなのだろうが、代謝速度が時計の振り子のような役割をしているのではないかと私は思っている。これが正しいかどうかは別問題で、そんな気がするということである。
 若いときは代謝速度=振り子が早いので、それを基本単位とする時間が流れる。よって実時間が経つのが遅く感じる。だから、若いうちは退屈することが多い。だが、振り子がゆっくりになると実時間が早く感じるようになる。だから年寄りは退屈することがない。一日、ひと月、一年がとても短く感じられるようになる。
 退屈しないのというのは、年を取って、数少ないいいことのひとつである。

基礎代謝0219

 厚生労働省の「年齢階層別基礎代謝基準値と基礎代謝量(平均値)」という「寿限無寿限無」みたいな資料によると、50~69歳の基礎代謝量は男性で1350キロカロリー、女性で1110キロカロリーになっているそうだ。これが70歳以上になると男性で1220キロカロリー、女性で1010キロカロリーに落ちる。つまり、大雑把に言って、若いときの90%くらいの食料で済むことになる。
 この数値は、『お金をかけない「老後の楽しみ方」』という本にあった数値である。たぶん、厚生省の資料(上の寿限無のことね)をまとめたものだろう。私は、お金をかけない老後の楽しみ方の専門家(というより実践者だな)になるべく努力しているので、なにか見落としがあったら大変と思い、スーパーの棚にあるのを買ったのである。
「基礎代謝」は、雑に言えば、息をしているだけで必要なエネルギー量で、これに身体活動量(約30%。生活活動や運動により消費される)、食事誘発性熱産生(約10%。食物が消化、分解、吸収されるときに消費される)が足し合わされると、一日の消費エネルギーとイコールになる。約30%、約10%は、一日の消費エネルギーの、ということである。
 昨日申しあげた代謝とは微妙に違う。昨日のは低位の代謝であり、本日のはその低位の代謝を集計したものである。
 だから、本日の結論は、年寄りになったら、食事はほぼ一割減になってもOKということだ。
 上述の本で多少なりとも役に立ったのは、本日分と明日分で申しあげるだけのことであった。それ以外はなんだか説教臭いことばっかり言っていてつまらない。その説教で、私は菅義偉の寝言を思い出してしまった。あの人は、「自助、互助、公助。そして絆」とよくわからないことを言っていたが、この言葉は田舎の校長先生が生徒に言うなら多少なりとも意味がないこともないが、いやしくも首相が「自助」を言うって、いったいなによ。「公助」を期待しないでくれってことかね。首相が言うと、そうとしか聞こえない。もしかして、それが狙いだったりして。
 行政の長なら、「こういう公助を用意します」とだけ言うか、「公助はこれからこうなります」って言うか、それだけのはず。なんで、こういう説教じみたことを言うかねえ。だいいち、絆ってなんだよ、まったくもう。
 閑話休題。
 この本を書いた方のお名前は出さない。武士の情けである。ただ、この方、「老い」に関しての本をたくさん書いておられるので、ちょっとだけ厳しいことを言わせていただいた。
 この方の肩書は、某大病院の「精神腫瘍科」の教授である。これは、がんと精神・心理との相互の影響を扱う分野で、がんが本人や家族・医療者に与える精神・心理的影響、逆に精神・心理、また社会的要因ががんの発症や罹患後に与える影響を研究するものだそうだ。80年代に成立したという。
 後者は私でも意味を認めるが、前者は、がんで落ち込んで、精神にまで影響が及んでいる患者に向かい、それなりのケア(精神的、心理的)をするものだろうから、どちらかと言えば宗教者なんかの領域じゃないのだろうか。
 まあ、だからなんだか説教臭くなるんだな、きっと。

歩くことは全身運動0220

 本日は、陶芸(教室)の窯出しの日である。我がシェアハウスからは、まずバスに乗り、JR駅、もしくは私鉄駅で降り、いずれかの電車に乗り目的の駅で降り、そこから陶芸(教室)が開催されている市民センターまで歩く。この行程の往復でおおよそ8,000歩くらい。一日の運動量としては、十分である。
 私は、基本的に、2日で一万歩を歩くことにしている。つまり、なにかで歩く時間がとれないこともあるので、こういうふうに決めたのである。いまのところ、これで体力は維持されている感じがする。
 歩行で、体全体の筋肉の60~80%を使うそうだ。これも、昨日の『お金をかけない「老後の楽しみ方」』にあった数値である。
 これは実感としてわかる。
 50代の後半、私は仕事をやめ、晴れて浪々の身となった。それまでそこそこ大変な毎日だったので、突然暇にしたら体に悪いと思い、散歩を日課にした。そのころは、新宿区四谷に住んでいたので、新宿区内を歩き回ることにした。新宿区内には、それなりの「史跡」がある。一番ビックリしたのは、野犬の収容施設跡があったことである。と言っても江戸時代のものね。野犬ではなく、お犬様だな。私は、中野区にあったものしか知らなかったのである。
 八王子に移って来て、私らのシェアハウス周辺は新開地なので、あまり史跡はない。よって、楽しみは、野草の観察に移った。いま、スマホで写真を撮ると、野草の名前を教えてくれる機能がある。その名前を、シェアハウスに帰ってからネットで調べるのである。なかなか楽しい。
 ああ、散歩の楽しみじゃなくて、散歩そのものの話だった。どうも、老人の話てえのはとりとめがなくっていけない。
 我がシェアハウスの周辺には、非常に大きな公園が2つある、そのうちのひとつはほとんど遊歩道を伝って行ける。私鉄の駅までも、ほとんど遊歩道を通って行ける。この遊歩道を歩いていたとき、私を追い抜いていった女子高校生がいた。「競歩の選手かよ」と思ったが、なんのことはない、私の歩みが遅くなっていたのである。八王子に移住して比較的すぐのころだ。
 それでビックリして、人に追い抜かれることを意識するようになった。このごろではさらに追い抜かれるようになってきている。若い男性だと、まずストライドが違う。それから、足を運ぶ速度が違う。
 若い男性に追い抜かれるたびに、私は、彼らの歩き方を観察するようになった。おおむね、ストライドは彼らのほうが私の10%増しくらいである。筋肉が硬くなっているので、ストライドも短くなる。足を運ぶ速度もおおむね彼らのほうが10%増しで早い。だから、時速に換算すると、彼らから見たら私は約20%減の時速で歩いていることになる。追い抜かれるわけだな。
 私はどちらかと言えば、若いころは足が速いほうで、歩いていて抜かれたことはあまりない。大阪に行ったとき、大阪のおばちゃんに抜かれてビックリしたことがある。大阪人は、日本で一番早く歩く人たちなのである。これはなんかの統計で見た。
 本日は、三度もビックリしたな。

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