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母の日Presents「僕のおばあちゃん」

今回は、小学校の作文のようなタイトルで初めてみました(笑)
今日は「母の日」ですが、私は5歳の時に両親が離婚して、おばあちゃんが母親代わりでした。実の母には、毎年プレゼントをしていて、最近は「ハーバリウム」を贈っています(^^)

おばあちゃんとの昔の写真を見ていたら色々思い出したことがあり、身の上話にもなるかもしれませんが、なんとなくコラムにしてみようと思い立ったので、お付き合いください。


母親代わりだったおばあちゃん

おばあちゃんは8年前に亡くなっていて、もういません。
私が5歳の時、両親は離婚して、姉は母と、私は父と暮らすことになりました。流石に仕事しながら男だけでは生活していけず、おばあちゃんを呼び寄せて、3人での暮らしが始まりました。

父も6年前に亡くなってもういませんが、父は仕事一筋で不器用な人で、平日は朝早くから夜遅くまで働き、休日はパチンコに行くという生活でした。なので、おばあちゃんと2人でいる時間が多く、「おふくろの味」と言われたら、思い出すのはおばあちゃんの料理です。

「だご汁」という郷土料理があるんですが、それが一番のご馳走で、私が一番食べたんじゃないか?と思っています。もう「だご汁」を食べることはできませんが、過去に何度か作ったら、やはり同じDNAだからか、遠からず似た味を出せました。もう作ってはもらえない代わりに、我が家では私が味を継いでいきたいと思います。


おばあちゃん、波乱万丈

おばあちゃんは戦争を経験していて、満州に行っていました。たまに話してくれた戦争の話を、今でも覚えています。満州から北朝鮮に越境した時、文字通り身ぐるみ剥がされて裸にさせられ、荷物も没収されたそうです。その後、韓国に入った時は温かい対応だったそうなんですが、それもあって、おばあちゃんは北朝鮮のことが嫌いでした。ちなみにおばあちゃんは熊本生まれで、9人兄弟の末っ子だったんですが、兄弟で音信不通になった人が一人いて、噂では北朝鮮に拉致されたんじゃないか?と言っていました。当時拉致被害者のニュースが話題になった時に聞きましたが、まさかこんな身近に?と驚いたものです。

おじいちゃんは42歳の時に船の事故で亡くなり、おばあちゃんはそれから仕事を始め、女手一つで子供3人を育てる、芯の強い女性でした。

親が離婚した後、3人で暮らすようになってからも、家のことはおばあちゃんが完璧にこなしてくれていました。毎朝起きてから掃除をして、ご飯を作り、仏壇にお供えをして一日が始まりました。お昼には内職もしていて、毎日忙しくしていました。

今はステイホームで家のこともやったりしますが、おばあちゃんがどれだけ大変なことを当たり前のようにやっていたか。おばあちゃんの凄さを実感しています。これだけ時間があっても、おばあちゃんには敵いませんね。どれだけ家族の為に家事をしてくれていたか。


おばあちゃんと私

私が20歳の時、父が再々婚し、同じマンションに二部屋借りて、私は25歳になるまでおばあちゃんと2人で暮らしました。

地元で万博があった時、おばあちゃんを連れて、車椅子に乗せて回った時は、とても喜んでくれたものでした。
おばあちゃんは「年寄りがやるもんだから」と、ゲートボールが嫌いで(笑)、地域のパターゴルフをしていました。おばあちゃんは最年長でしたが、ホールインワンを連発して、景品のトイレットペーパーを毎週とってきてくれたので、我が家ではトイレットペーパー不足知らずでした(笑)

おばあちゃんが、「いつまでパターゴルフできるかなぁ」と言っていたことがありました。私は、「そしたらおばあちゃんをおんぶするから、それでやったらいいよ」と答えたんですが、おばあちゃんはそれがとても嬉しかったようで、色んなところで、孫がこんなことを言ってくれてるんだと自慢していたそうです。結局叶いませんでしたが、おばあちゃんが喜んでくれたことは、とても嬉しかったです。

25歳で私は地元・愛知を出たので、それからはおばあちゃんは父たちと暮らすようになり、年に2回帰省した時は、とにかくおばあちゃんに会いに行ったものです。日に日に小さく、日に日に可愛くなっていったのを思い出します。
信心深かったおばあちゃんは、1日に3回は「なむあみだんぶ〜」とお経をあげていましたが、一緒になってお経をあげるのをとても喜んでくれて、「一緒にお経をあげてくれるのはあんただけだ」と言っていましたが、嬉しかったものです。

31歳の時、独立しようと地元に帰ったのですが、入れ違いで家族は熊本に帰ることになりました。親族一同が集まり、おばあちゃんたちの送別会を開いたのですが、トップ画像の写真は、その時のおばあちゃんとの写真です。編み物が得意だったおばあちゃんは、コースターを編んでいて、それを今でも大切に持っています。

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元気な姿に会えたのは、その年の年末に会いに行ったのが最後でした。


大好きなおばあちゃんとの別れ

おばあちゃんがいよいよ危ないという知らせが入り、姉家族と車で向かいました。
私にとっておばあちゃんは特別な存在で、おばあちゃんにとっても僕は特別な存在でした。だから、私が会いにいけば、元気になるんじゃないか、奇跡が起こるんじゃないかと、どこかで思っていました。

おばあちゃんはベッドに横たわり、意識を失っているかのように眠っていました。どことなく苦しそうで、足は浮腫んでいて、マッサージをしたものです。その姿を前に、何もできない私は、涙を止められませんでした。
話によると、前日まではご飯も食べて話もしていたそうです。しかし、会いに行った日、点滴をするのに手間がかかったそうで、容体が悪化してしまったそうな。

結局、おばあちゃんとはまともに話ができないまま帰ることなりましたが、その三日後、亡くなったという連絡がきました。

仕事の都合もあって、日帰りでしたが飛行機で熊本へ飛び、葬儀には出られませんでしたが、きっとまだ魂がいるだろうと、急いで会いに行きました。父にも、往復で4時間もかかるのに無理を言って、送迎してもらいました。

父も、その2年後に亡くなるとは、その時は思いもよりませんでしたが、おばあちゃんにもう会えないっていうのは、とても寂しく、辛い帰り道でした。


おばあちゃん、ごめんなさい。そして、ありがとう。

おばあちゃんは、とても頭の回転が早く、厳しい人だったので、親族からは怖がられる存在でした。私が中学・高校生の時、そんなおばあちゃんに何度も口答えして、その度に言い返され、しょっちゅう喧嘩をしていました。
母と姉がいなくなったことで、きっと愛情を求めていた私は、家族の愛がわかっていない時があり、私はおばあちゃんに、「俺のことを考えてくれてるのは、友達しかいない!」と言ってしまったことがあります。
おばあちゃんは、「どれだけあんたのことを考えてると思ってるの!」と叱られましたが、どことなく悲しそうな横顔だったのを、今でも覚えています。

今ならそれが、どれだけ愚かなことだったかがわかります。愛する孫にそんな冷たいことを言われて、どれだけ辛かったことでしょうか。本当に申し訳なかったです。

もう今は、謝ることも感謝を伝えることもできません。

本当に、おばあちゃんにはしてもらったことばかりでした。私にとって、おばあちゃんはいつまでも特別な存在です。母も母親ですが、おばあちゃんも私にとっては母親でした。もっと、してあげられたことはいっぱいあっただろうなと思います。
おばあちゃんにしてもらった分、今はまだいませんが、自分の子供や、できるなら孫に伝えていきたいと思います。

おばあちゃん、ありがとう。大好きです。


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