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インクルーシブだった


はじめに

文部科学省は、「(障害のある児童生徒の)インクルーシブ教育」を推進している。
筆者自身の経験から、それには可能性があることを知っている。
しかし、同時に困難があることも知っている。
小学生当時の経験から、インクルーシブ教育がどうあるべきなのかについて筆者の考えを述べる。

インクルーシブだった

脚が不自由で同級生Kちゃんと小学2年生の時に同じクラスになった。今思えば、軽い知的障害も持っていたいたようだ。
平成22年当時は特別支援教育の制度が整っていなかっただけだが、誰でも教室の仲間に入れて(インクルードして)学ぶインクルーシブ教育が偶然にも実現されていた。
今考えれば、正しい知識と適切な指導力がある担任の先生だったから、障害に関係なく誰もがその子と普通に接していた。
そして、必要な時には学級全体でサポートをしたり、彼女に合わせてゆっくり行動したりしていた。
クラスメートが善意で誤ったサポートをしている時には、先生は指導と注意を行い、それを学級で共有していた。
先生がどんなことを言っていたか、今でも覚えている。
・『〇〇さん、一緒に階段を登ってくれてありがとう。でも、手を繋ぐより手すりを持つ方が安全に登れるから、一緒に登って見守ってください。何かあれば先生に言ってください。』
・『「おいで」ってKちゃんに言っているのを聞きました。「おいで」は目下のひとに言う言葉です。Kちゃんは障害があるけど、みんなのクラスメートです。目下ではなく、同じ立場だから「来て」と言ってください。』
などであった。
特に2つ目は「おいで」という小さなことだが、それを見逃さなかった先生は、インクルーシブ教育の意識の高さが示された指導であった。

インクルーシブじゃなくなった

それが突然、5年生の時に学校に肢体不自由の特別支援学級が新設されたことで、殆どの時間で分離(エクスクルード)されるようになった。
それを寂しく思ったのは筆者だけではないはずだ。
彼女は障害があったが、大切なクラスメートであった。
しかし突然、5年生から、同じ教室で一緒に学習し続けることが出来そうな教科さえも分離されたのだった。
「特別支援教育」という名目で分離していた意味があったのだろうか。
インクルーシブじゃなくなった瞬間であった。

インクルーシブだったけど

上記の経験とは反対に、筆者は障害に対して嫌な思いを持った経験がある。
それは、小学4年生まで通った児童館での出来事だった。
いつもよだれを垂らし、「あ〜」と声を発し、何を言っても通じないT先輩がいた。
恐怖を感じ、正直、「気持ち悪い」と思っていた。
その感情は間違っていた。
彼を叩くと、周囲から「Tくんは障害があるから、仕方ないの。」と言われた。
「”しょうがい”って何?」
「病気みたいなもん。」
病気だと説明されても、病気でこんなになるのだろうかと信じることができず、「気持ち悪い」と彼に対して思ったままだった。

小学1年生が障害を理解できず、嫌な感情を持つのは当然のことかもしれない。
先生が周囲に対して説明をするべきだったとは思うが、そう思っている児童になんと言って説明すれば良いかと考えるようになって3年経つが、未だ答えは出ていない。
なんと言われれば理解ができてただろうか。多分、6歳の児童には理解が難しい。だけど、先生たちも障害を持った彼を大切に思っていることがもっと分かれば、彼のことを「気持ち悪い」なんて思わずに済んだかもしれない。

おわりに:インクルーシブであるために

特別支援教育を大学で学びながら、放課後等デイサービスのアルバイトで実際に発達障害や知的障害を持った子どもたちと関わって分かったことがある。
それは、「特別支援教育」は特別な児童生徒を支援する教育ではなく、「普通の児童・生徒が持っている特別な支援のニーズに学校教育で応えること」であるということ。
言い換えると、特別支援教育を受けるのは”普通の児童生徒with障害”である。
理解しているつもりだったけど、まだまだ障害に対する正しい理解が自分になかったことに気付かされた。

”筆者はインクルーシブだったからインクルージョンの可能性を知っているけど、インクルーシブだったからインクルージョンの困難を知っている。”

「障害があって何もできないから」支援をするのではなく、「障害があってできないこと」だけを支援するだけで、全てを支援するために最初からエクスクルード(分離)するのは誤っている。
必要な支援をするためだけに障害の状況によっては別の教室で必要な時間だけ指導をすることは止むを得ないと思うが。

しかし、真のインクルーシブ教育を実現するには、周囲の児童生徒に障害を持った児童生徒とどう関わるべきなのかについて詳しく知らせる必要がある。
無知は危険とよく言われるが、障害について理解がないと筆者の児童館での経験のように子どもも障害について嫌な感情を持つだろう。
教員だけでなく、児童生徒の理解とサポートがあってこそ、真のインクルーシブ教育が実現されるのだと、私の経験から知っている。


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