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初の京都ひとり呑み 高齢な女将との交歓 ③|下戸の酔いどれ放浪記

西院で呑んだあと一旦ホテルへチェックインし、次の目的地である京都駅へと向かった。時間はもう11時近くになっていた。

京都駅近くに、昭和の佇まいを残す呑み屋街があるとはとても想像ができなかった。目的地に向かいながらも、本当にあるのだろうかと訝しむ気持ちが募る。スマホの地図を見ながら近くまでこぎつける。本当にあるのだろうかと小道の先を覗いてみると、ビルに挟まえるようにして小さく明かりを灯した古びた建物が見えてきた。奇跡的に潰されずに残っている昭和的な佇まい。その愛らしい姿に感嘆した。

建物の真ん中に通路があり、左右にお店が並んでいるだけのシンプルなつくり。左右を見ながら歩いていくと向こう側の大通りに抜けていく。
左右どの店も間口は広いが奥行きはなくカウンターのつくりの店ばかりが並んでいる。

小心者のわたしは、またもやどこで飲むべきか決め兼ね、何度もその廊下を行き来することになる。

とりあえず客が少なそうな店を選んでみることにした。恐る恐る、引き戸を開けると、眼光鋭い30歳代の強面の若造がカウンター越しにわたしを睨みつけきた。やってますかと聞こうとするこちらの機先を制するように、
「閉めたんだよっ!」と吐き捨てるように言い放つ。
なぜそこまで叱責されなきゃならないのかと、
小心者のわたしは、しょげかえるばかりであった。

それで一挙に臆病風に吹かれることになる。
次も同じように叱責を受けたなら、もう次の店を探す勇気は残されていないだろう。

わずかに覗ける窓から年配の女性のやっているであろう店を見つけた。
客数も少なそうだ。ここなら大丈夫だろうか。

恐る恐ると戸を開き、「まだやってますか?」と聞くと、
料理はあまりつくれないけど、どうぞとの返事があった。
女将は80歳にもなろうかというぐらいの高齢であった。
カウンターに座ろうとすると、
彼女は慌ててアルコール消毒をするように勧めてきた。
コロナが怖いからねと言い添えた。
※2020年3月、いまや日常的なアルコール洗浄も、当時は新鮮であった。

曇ガラス越しに見たお客のシルエットは、30代男性で一人客であった。
細身で長身、背広姿の男だった。カラオケを歌っていた。
若いのにオヤジのような呑み方をするのだなと関心した。

わたしは、日本酒とお魚を注文した。

女将さんはこちらに興味を示して、
どこから何しに来たのかと聞いてくる。
東京だと答え、コロナ禍のなか不謹慎だけど、
静かな京都を体験する今世紀最後のチャンスかと思い旅行に来たと伝えた。

コロナの影響はどうですかと問うと、
お客はすごい勢いで減っているという。
会社からは、感染の恐れのある電車通勤をやめて、
クルマ通勤をするようにと勧告があったようだ。
そんなことでお酒を呑みたくても呑めないお客さんが増えているというのだ。
クルマ通勤が一般的でない東京人からすると新鮮な話である。
たしかにクルマ通勤であれば感染することはないだろう。

隣の男性は、わたしが来てからカラオケを歌うのを止めてしまった。
ずーとメニューを見たまま歌うことがないのだ。
わたしが来たために、興ざめさせてしまったのだろうかと心配になる。
「わたしに気兼ねせずに歌ってくださいよ」と一言二言言葉を交わしたが、
あまり愛想があるようには感じられず、
彼に向けていた視線を女将のほうへと戻すのであった。

暫くして女将が料理のほう注意を向けていると、
突然、男はこちらに乗り出すように声をかけてきた。

「東京から来たんですよね?」

どうやら彼は東京が好きで、よくプライベートで東京に来るらしいのだ。
まだ独身らしくグルメで、美味しいところを食べまわるのが好きで、
関西だけでなく、東京へも足を伸ばすらしい。
京都駅近くの有名な宿泊施設のホテルマンとのことであった。

わたしは全くグルメではないので、
東京の美味しいところを紹介することができずにいたが、
彼のほうは、わたしから情報を得ることよりも、
自分の行った店が如何に美味しかったかを吹聴することのほうに熱心であった。
ふと良いアイディアが思い浮かべた。
明日のランチ、美味しいところを教えてもらえるかもしれないと思ったのだ。
明日東京に帰るのは夕方だから、ランチを食べる時間は設けられるはずだ。

わたしが明日のランチで美味しいところを紹介してほしいと云うと、突然彼は押し黙ってしまった。
難しい顔をしている。面倒なことを聞いてしまったのだろうか。
彼は遠くを見るように固まったままでいる。
彼の頭脳に格納された膨大なデータバンクにアクセスしているようだ。
「そうそう教えてあげて。貴方はたくさん美味しいところを知っているのだから」と
女将さんも加勢してくれた。

しかし彼は、その後もずーと考え込んでいる。
そんな彼の存在も忘れて、わたしは女将との話に夢中になっていた。
随分時間が過ぎたように思った。
彼のほうを見ると、メモ帳のようなものを引っ張りだし何かを書き始めている。

神経質にこまかく何かを書き込んでいるようだが、どうも地図のようだ。
その後もカラオケを歌うことなく、長い間、一心不乱に書き込んでいる。
性格なのだろうが、几帳面というか、バカ真面目というか。
軽い気持ちでお願いしたものの、彼の必死な姿を見せられると、
余計なお願いをしてしまったようで申し訳ない気持ちが募ってくる。
せっかくの酒の場なのに、まるで仕事を強いているようで気の毒であった。

店の選定から地図を完成させるまで30分、いやそれ以上の時間をかけて。
彼はわたしに2つのチョイスを与えてくれた。

わたしに地図を示しながら、
京都駅から遠くないところを選びましたという。
熟考に熟考を重ねた彼は、
最良の選択と思しき一軒目を紹介してくれた。

「えーと、一軒目は、蕎麦屋です!」

わたしは耳を疑った。
本当に耳を疑った。
いや聞き違いであってほしいと願った。
うどんやろ?と思った。

関西で蕎麦?なんでやねん??
あんなに熟考を重ねた結果が、「蕎麦」なんかいな。

関西蕎麦?大阪蕎麦?
聞いたことがない。
蕎麦こそ東京やろ!と思った。
誰に紹介してるんかと。

しかし|寡聞〈かぶん〉にして知らないだけかもしれない。
京都にも絶品の蕎麦があってもおかしくないだろうと。
思い直すと興味が湧いてくる。

さて次に紹介したいのはと、彼はさらに得意げに言い放つのであった。

「寿司やです!」

この野郎!!と思った。
喧嘩を売っているのかと。

俺は東京人。
"江戸前寿司"の本場から来てるんやで。

"押し寿司"ではないのか。
そうであれば話は違うのだが。
しかし話を聞いていると江戸前寿司のようである。
いやこれも蕎麦と一緒であろうかと思い直す。
人も情報も容易に流通するようになった現在、
関西にも絶品の江戸前寿司があったとしても 今日日何も不思議なことではないはずだ。

彼は太鼓判を押していた。
しかもとても安いということである。

蕎麦屋も寿司屋もそんなに遠くない、同じ地域にあるようだったので、
とりあえず明日、ふたつのお店の店構えをみて、どちらに行くかを見定めようと思った。

ホテルマンの彼は、仕事をやっと終えたかのような感じでお店を後にしていった。

もう遅いからわたしもおいとましなくてはいけないかなと思ったのだが、
女将は1時間ぐらいならいいわよと言ってくれた。
それで女将の歴史について語ってもらうことにした。
彼女は、京都出身ではなかった。
ちょっと記憶から抜けてしまったのだが、山陰のほうではなかっただろうか。少なくても関東や東北ではなかった。
不慣れな京都に来て、最初は、呉服屋に勤めることになったらしい。
ちょうどここに来るまえに、国立映画アーカイブで松本俊夫のドキュメンタリー『西陣』を観たばかりであったので興味深かった。
映画は、1961年(昭和36年)の作品。着物が飛ぶように売れているのだが、その狂乱とは関係なく、
経済的な恩恵を得ることなく苦渋を強いられている、当時の着物をつくる人たち、その底辺の人たちの悲哀を描いた映画であった。
彼女が話してくれた時代も、まさにあの時代あたりのように思える。

呉服屋に勤めていることが彼女の住むアパートの住人に知れると、
着物が欲しいのでなんとか都合をつけられないかという相談が舞い込むようになった。
店に相談すると喜んで対応するということである。
その後もひっきりなし、噂を聞きつけて、アパートだけでなく近所のあちこちから着物がほしいと声がかかるようになったとのことである。
彼女は着物の販売とは全く関係のない仕事をしていたのに相当数の着物を売りさばくことになったらしい。
数年すると店の社長も、彼女の販売力に期待して、独立して販売一本で仕事をしないかと声をかけてきたらしい。
しかし彼女は、その折角の申し出を即座に断ったとのこと。
着物が飛ぶようにうれていた時代ながら、若い女性たちが着物に執着しなくなってきている、若い女性は便利なワンピースなどの洋服に心が移していることを、当時若かった彼女は敏感に感じとっていたらしい。もう直に売れなくなるだろうと。その予感は見事にあたったらしい。

昭和30年代の映像を見ると、実に多くの人が着物を着ているのが確認できる。
いまはどうだろうか。街中を歩いていても、着物姿の女性を見つけることはかなりレアではないだろうか。
とくに普段着として着物を着るかたはほとんどいない。
少なくとも東京近郊では。便利さと引き換えに、確実に日本文化が消えていることを痛感するばかりである。

その後結婚した彼女は、祇園で料理の手伝いをするようになったとのこと。
厳しい世界であったが、そこで料理の腕を磨くことになり、
いまのお店を開くきっかけになったとか。

他にもいろいろ話を聞かせてもらったのだが、やはりメモを撮っておかないと忘れるものである。

最後は政治の話しになったように記憶している。さすが左翼度の高い京都だなと関心する。
民主主義的な価値観の交換は、非常に心地よいものだsった。
また必ず来てねと声をかけてもらった。
※その後のコロナ禍でずーと行けずじまい。お店はまだ健在だろうか。

帰り際、女将は、店の看板の電源を消してほしいと頼んできた。
お店を後にして、いろいろ探すものの肝心のスウィッチが見当たらない。
もう一度扉を開き、女将にスウィッチの位置を詳しく教えてもらう。
やっと見つけたスウィッチを消すと、最後の店であろうか、通路はぐっと暗くなった。

明日のお昼は、更科そばか、江戸前寿司を食べることになりそうだと思いながら帰路についた。

(続く)

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