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次世代リーダー育成塾 第5講         ~志の起点、人としての原理原則と”真摯さ”~

リーダーモデル2.1

前回、第4講では世の為人の為、高い志を持つことの重要性をお話し致しました。仕事は最終的には成果が求められますが、成果とは何か?以前も書きましたが、ドラッカー先生の言葉を借りて定義すれば「世の中、顧客に良い変化をもたらすこと」に尽きます。数字はその結果、顧客からの評価であり、利益はもっと世の中に貢献せよとの準備金、支度金のようなものです。

改めて”志”とは

仕事人生に於いて志を高めることは、自分の私利私欲を超えた「何か」の為に尽くすこと、謂わば「使命」、残された命を何のために使うのかを定め、学びと実践(知行合一)を繰り返しながら成果を重ねて「何か」を発展させていくことです。志と単なる夢や野望を分かつものはその「何か」に拠ります。例えば以下のような言葉、皆さんならどう感じるでしょうか。

Aさん:自分の志はタワーマンションの最上階に住むこと
Bさん:自分の志は家族を幸せにすること
Cさん:自分の志は今の仕事で成功すること
Dさん:自分の志はお客さまに信頼されること
Eさん:自分の志は社会を一歩でも良きものにしていくこと
Fさん:自分の志は仕事を通じて誇れる社会を次世代に遺すこと
Gさん:自分の志は自国の独立を守ること
Hさん:自分の志は世の中から紛争を無くし誰もが人間として輝ける世界にすること

皆さんが上記の方々の部下だとしたら、誰をリーダーとしたいでしょうか。優劣ではなく生きる目的の違いですので、正解不正解という類のものではありません。しかし志は「身の立て方」ですから、結果(アウトプット)とスループット(何を通じてか?)が混在しています。因みに、孔子は『論語に於いて』「14歳のときに学問を志した」とあります。つまり最初は学問で身を立てようと思っていたわけです。それが最終的には「国に良い政治を広めよう」に発展したわけです。若い時にAさんのような野望を持つことも成長にはつながるでしょうし、Bさんの思いにも共感する人は多いでしょう。

私の基準ではEさん以降を”志あり”と考えます。個人的な基準ですが…。これまで事を成した先人たちに共通した基準というのがあります。それは「私心」が無いことです。つまり「何か」とは「私心」ではないこと、このことが決定的に志かどうかを分かつ軸だと先人たちは教えています。しかし、平和ボケに等しいほど精神が牧歌的で、豊かな社会の中生まれ育った昭和後期以降の現代人に、「私心」を抜くことは極めて難しいことです。古来、西郷隆盛翁も「小人は10人中7~8人」と言っており、最近の発達心理学でも利他の精神領域に至っている成人は世の1%未満とされています。

先人には少し遠慮して考える必要も現実を直視すると必要です。私心がある程度満たされていることを前提に、或いはマズローの欲求階層の生命、安全、社会、自尊そして自己実現の各欲求は現代人が生きる上で必要な私心であるとして肯定することも、人を活かす意味では大切なように思います。よって今の世で志を追求するならば、自分及び自分の家族を大切にすることは当たり前で、さらにその上の「何か」、いうなれば社会的、或いは公益的な視座があるかどうかを軸にしたい。社会とは人間の集まりです。その生活という営みの地域的な集合体です。人間が住むところには必ず社会が必要となります。その社会の発展のために人生を通じて貢献することが目的に含まれていることが志かどうかの基準にしています。社会、国家、世界、更には地球とか宇宙などとする人もいるかもしれません。私はそこまでは想像がついていないのですが、少なくとも地域社会、私をここまで生かしてくれた祖国、さらには日本の独自の使命として世界の平和や発展に果たすべき使命があるとも考えます。先ずは自国が発展しなければ世界、とはならないので、今は次世代が誇れる社会、祖国を引き継いで行くことを常に志しています。日本の現状に危機感を抱いていることも志に強く関係しています。そういう意味では社会性の他に、自分の人生を超える時間軸も必要な要素のように思います。

纏めると”志”かどうかの基準は、そこに社会以上の成果(良い変化をもたらすこと)を求める志座の高さと、自分の人生を超えた時間軸(例えば次世代、子々孫々とか)、この2つが決定的に重要であると思われるのです。

志を持つためには

生きていくにつれ、自分のために生きることから何かの為に尽くそうとする志に自身の生きる目的が発展していく、またはシフトしていくためには、何が必要なのか。それは人生の思いがけない体験や何かの現実を目の当たりにした時かもしれません。そうした偶然性も多々あると思います。但し、目の前の現実をどう捉えるか、その時に正しい考え方に基づいた志に至るのかどうかは、学び続けていることが重要です。知識を基にした見識が求められます。知識とは既に先人たちが困難を乗り越える中で考え抜かれた原理原則が最も知識として重要です。この原理原則が現実直視する際のあるべき姿の基準となり、良し悪しの判断の軸になり、更には「ありたい姿(≒ビジョン)」の中心と外郭の大きさを決定するように思います。原理原則の中でも、特に古典から紐解けば、リーダーたるもの「仁」の心、「義」の精神が必須だと考えます。そしてこの二つをもって「真摯さ」こそが決定的に重要です。仁は『論語』、義は『孟子』に拠るのが学びとして重要です。「仁」とは何かを説明するのは実は骨が折れます。孔子は『論語』の中で「仁」を最高の徳としています。故に100箇所以上この「仁」について触れていますが、実はその定義ははっきりと「これだ」とは書いていません。様々な解釈がこれまでも碩学によってされてきている言葉の一つです。帰納的に集約すると「大きな愛をもって為すこと」と私は解釈しています。仁が愛という解釈であることは一般的には広く認められていますが、もう一段深く読むと、例えば次のような一文があります。

「仁者は難きを先にして、獲るを後にす」
「仁者は己立たんと欲して人を立て、己達せんと欲して人を達す」
(以上、雍也編)

これは「先義後利」とも似ているし、仏教の「利他すなわち自利」とも同義のように思われます。上記の講師の言葉を解釈すると「社会や目の前の困難は自らが引き受け、その成果は次の世代に」と受け取れますし、下段は発達心理学でいう自己の利を超越した段階である「相互発達段階」「利他の段階」に通じます。つまり「相手の成長、発展が自分の喜び」とする段階です。

「義」の定義は比較的容易です。「正しいこと」或いは「公益を重視すること」です。私利私欲(私心)に対して義を重んずる、と良く表現されるように優先順位として公にとって正しいことを優先する精神があるかどうかを問います。孔子の後、孟子がその教えを更に広く世に修める役割を果たしましたが(直接の弟子ではない)、儒教の世界では孔子に次いで重要視されるのがこの『孟子』の教えです。セットで「孔孟の教え」と言われます。孟子は冒頭で「国を治めるには仁義の道があるだけだ」と説きます。このように「仁義」とセットで多く出てくるのが『孟子』ですが、仁に加えて「義」の重要性を説いているところが孟子の特徴です。孔子の世の後、特に乱れた世の中にこそ改めて「義」を強調すべき背景があったのかもしれません。「義を見てせざるは勇なきなり」という言葉は多くのリーダーが座右の銘とする有名な言葉ですね。

リーダーに求められる”真摯さ”と現実直視

四書五経の古典は主に政(まつりごと)、つまり政治においてその重要性が説かれていますが、更に会社の経営やマネジメントの世界に落とし込んでいく際に学ぶべき対象としてマネジメントの父、ドラッカー先生の著述があります。ドラッカーは『マネジメント』の中で「真摯さ」が決定的に重要だとしました。この言葉も定義が難しいと自身で書かれていますが、逆に真摯さの欠如はたやすく指摘できるとして、具体的に次のように表しています。

「真摯さの定義は難しい。だが、マネジャーとして失格とすべき真摯さの欠如を定義することは難しくない。」(P.F.ドラッカー『マネジメント』)

として上で、下記のように真摯さの欠如を5つ挙げています。

①強みよりも弱みに目を向ける者をマネジャーに任命してはならない。できないことに気づいても、できることに目のいかない者は、やがて組織の精神を低下させる。
②何が正しいかよりも、誰が正しいかに関心を持つ者をマネジャーに任命してはならない。仕事よりも人を重視することは、一種の堕落であり、やがては組織全体を堕落させる。
③真摯さよりも、頭のよさを重視する者をマネジャーに任命してはならない。そのような者は人として未熟であって、しかもその未熟さは通常なおらない。
④部下に脅威を感じる者を昇進させてはならない。そのような者は人間として弱い。
⑤自らの仕事に高い基準を設定しない者もマネジャーに任命してはならない。そのような者をマネジャーにすることは、やがてマネジメントと仕事に対するあなどりを生む。

私はこのドラッカーの示唆する真摯さが「仁・義」に相当すると考えています。他にもたくさんありますが、こうした原理原則、人間として、或いは人の人生や次の世代に責任のあるリーダーたる者にとってのあるべき姿勢というマインドセットが無ければ、現実直視もままならない、或いは現実を見ても、こうではないのではないか、もっと現実をより良い場所に持っていけなければならないのではないかという「違和感」に似たものを持てないと考えています。そしてその違和感は評論家や批評家になってものを言うだけにとどまるのか、行動に起こし成果を求めるのかはこの原理原則の認識の深さに拠るものだとみています。

そしてこの「違和感」が問いを生みます。いま社会を見るにネット革命以降、人々は人間の便利的な能力は拡張されていますが、一方、すぐに答えを求める傾向が強まり、経営においても「手段」の精緻化に重きが為され、目的や課題設定が疎かになっていると感じます。何を解決したいのか、その課題の設定が不十分のまま、コンサルタントが提示したフレームワークに乗っかって作業をする、或いは到底予測の難しい未来予測に過大に投資する傾向があります。それを無駄とは言わないまでも先に立つべきは「どうするのか」という意志であり、どのような社会、会社としての(組織として)目的や目指すべき公益は何なのか、つまり「どのような社会を実現したいのか」その課題設定が先です。

次回、第6講ではこの志を持って情熱にかえ、具体的にリーダーとして何を次世代に遺すのか、その使命、課題設定のあり方について語りたいと思います。

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