物語を書いて、記憶を残していく。
数ヶ月に1回祖父母に電話することを決めている。
僕は現在東京に住んでいて、祖父母は長野県の松本市に住んでいる。新幹線で2時間強の距離だ。
頑張ればいけない距離ではないのだけれど、かと言って近くもないので、そうしている。
目的はお互いの生存報告をするためと、祖父母の話を聞くことだ。
特に祖母は現役で美容師をやっているので、面白い話を聞くことが多く、電話でも頻繁に笑わせてくれる。
最近はもっぱらコロナ関連の話題が多いそう。
百円ショップでこんな便利がグッズを買ったとか、生活を助けてくれる知恵についてよく話しているみたいだ。
人生を楽しんでいるおじいちゃん・おばあちゃんの話は圧倒的に面白い。
オンラインだろうがオフラインだろうが関係なく。
ご高齢の方の話の言葉が深く響く理由の一つは、さまざまな経験のおかげで引き出しがたくさんあることだ。
僕のおばあちゃんもそうなのだけれど、電話して話をするたびに新しい話を持ってくる。
そして大抵の場合少なくとも三十分はしゃべり倒して、「はあ〜、こんなに話したの久しぶり。タツミは聞くのうまいねえ」と、お茶をすする。
(タツミ、というのは僕の名前だ。)
僕からすれば聴いたことない話ばかりで、僕はほとんど聴いていただけなんだけどね。
むしろ新鮮な話ばかりで楽しかったよ、とこっちが学びになってしまうことがほとんどだ。
自分の考えが長い歳月の間で醸成されているからなんだろうなあ。
分かる人にはわかるし、分からない人にはどこまでもわからない。
なんなら多分、彼ら自身も自分達の言葉を理解してもらおうと思っていない。
ドラマやらなんやらで、うんうん、とうなづいているおばあちゃんを見ることがたまにあるけれど、彼女が思っているのはきっと「伝わってくれればいいなあ。時間がかかってでもいいから」ということだけだ。
うまくいくことが100%決まっている究極のギャンブル。
きっと楽しいに違いない。打つたびに当たりが舞い込んでくる。
自分は絶対に正しいはずだという確信。
長期的に見たらそれは理解してもらえるんだ。
じゃあ、自分の役割は・・・?と話すときは話して、それ以外は黙ってうなづいているだけというわけ。楽しいに違いない。
それでいい、上手くいく。
僕がコーチングを受けている時もまさに同じ感覚を味わっている。
コーチがおじいちゃん側の役割。
その豊富な思考と切り口からいろんなところから話題を引っ張り出してくる達人なんだ。
コーチングを受けている以上は僕が話している時間の方がメインになるはずなのだけれど、僕たちのセッションはなんやかんやコーチが問いをぶつけて、僕が考えて・・・というパターンに入ることが多い。
僕が内省モードにはいってコーチを置いてけぼりにしてしまうと、「おいおい」と修正が入る。
この修正がまた絶妙なんだ。
入るべきタイミングでしっかりと入ってくれる。
キャッチボールがうまくいってない時に「ボール投げてきて!!」と伝えてくれるんだ。主軸がブレず長く続いていくと対話も楽しいし当然うまくいく、というわけだ。
日常でそういうコミュニケーションを取れる人がどれくらいいるだろうか?と考えてみた。
たとえ僕の親友だったとしても、コーチみたいなコミュニケーションにはならないだろう。
やっぱり、ときどきは間が生まれるし、互いに注意が向いていないときは存在する。
そもそも簡単なことじゃないのだ。普段から相手のことを極限まで意識してコミュニケーションを取ることは。
だから、コーチの対話には価値が生まれるんだと僕は思っているし、可能であれば一度はコーチをつけることを全ての人にして欲しいと思っている。
そうすれば、日常をもっと自分好みに生きることができるんじゃないかな。
間違ったとしても修正すればいいんだ。
修正して修正して、自分の色に染め上げていく。
楽しいを少しずつ世の中に増やしていくんだ。
そして、感情が動いた経験は蓄積して記憶になる。記憶は過去と未来をつなぐ架け橋になる。そうやって、記憶は受け継がれていくんだ。
僕がおじいちゃんになった際には、子供や孫に記憶の物語を語るような人でありたい。紙芝居やらなんやら作っても、ひたすら話し続けてもいい。
今やっている発信もそのための下地造りみたいなものかな。
やっていてとにかく楽しいんだ。
これからもやり続けたいし、おそらくやり続けるだろう。
ここ1ヶ月ほど毎日配信してきた今でも、そう思う。
そして、祖父母をはじめとする他の人の物語にもどんどん触れていきたいと思う。毎日楽しみだ。
皆さんのお気持ちを、こっそり置いていっていただければ。小さな幸せ、これからも皆さんに与えます。