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扶養関係

 男は『自分の』タクシーの後部座席に座っていた。深酒をして目を閉じているが、寝てはいなかった。
 タクシーは見慣れた夜の国道を走っていた。この辺りまで来ると店もまばらで、その店もとうにシャッターを下ろし営業を終えている。
(俺のタクシー。なんで乗ってるんだっけか。そうだ、飲んだんだ。元々気乗りしなかった。やはり会うんじゃなかった。)
 男はゆっくりと目を開くと窓の外を流れる風景を眺めた。
(自分が運転していた頃と何も変わらない。景色は変わらないな。)
 誰もいない運転席では、ハンドルだけが小刻みに動いていた。
 男はほんの最近までドライバーとしてタクシーを運転していた。感覚的には二ヶ月かそこら、冷静に記憶を手繰りながら指折り数えても三ヶ月半といったところか。しかしその短い期間のうちに、男の生活は一変した。
 男はもはや働く必要がなかった。働かずとも毎月きちんと収入を得ることができる。決して多くはないが、十分に生活できる額の収入だ。男はそんな現状に満足していると決めていた。
「今日ハ、カナリ飲マレタンデスネ。意識ハアリマスカ?」
上手に抑揚をつけても機械の言葉とわかる音声に男は答えなかった。
(何もしなくても食っていけるし、こうして酒も飲める。嫌な客に媚び諂う必要もない。最高じゃないか。)
そう考えながら再び目を閉じると、男の意識はまた次第に曖昧になっていった。落ちゆく男の意識の中では、つい先程まで共に過ごした元同僚Sとの時間が思い返されていた。

・・・

「ようN、久しぶり。」
男が店に入ると、先に来ていたSがこちらに気づいてその名を呼んだ。男の名はNといった。
店はどこにでもあるようなチェーンの居酒屋で、二人が合うときはこの店と決まっていた。いつも約束に遅れがちなSが今日は時間より早く到着している。それがNにとっては意外だった。
「なんだ、馬鹿に早いじゃないか。」
「最後の客がキャンセルになったんでね。一応流してみたけど、今どき運転席に人が乗ってるタクシーを道端で止めるような奴はいなくて、早めに切り上げてきたんだ。」
Nの元同僚であるSは今もタクシードライバーを続けていた。つまり「『元』同僚」の関係になったのはNが仕事をやめたことによっていた。Nが会社をやめてからSと飲むのは今日が初めてだった。
「人付きのタクシーは高いからな。そのくせ今でもろくでもないのが混じってるらしいじゃないか。」
Nがそう言うとSは含みのある笑みを浮かべたが言葉では何も返さず、代わりに店員を呼ぶため手をあげた。やってきた店員に自分のおかわりも含め二杯のビールと、タコワサと枝豆を頼んだ。そしてジョッキに残った最後のビールを飲み干し、店員に渡そうとした。しかし店員は、何やら手持ちの端末に入力しながらテーブルに背を向け立ち去って行ってしまった。Sはその後姿を眺めながら呼び止めるかどうか悩んでいたようだが、結局声はかけずにその代わりNにこう言った。
「人にはムラがある。気付ける奴もいれば気付けないやつもいる。気付ける日もあれば気付けない日もある。ここの店はチェーンの割に遅れているようだけど、まあ、そう遠くないうちに接客もロボット化されるんだろうな。」
Sの言葉は今どきの一般論であったし何ら悪気はなかっただろう。しかし、Nにとってはそれなりに不愉快なものだった。Nはそんな感情をそっと押さえつけて「そうだな。」とだけ答えた。

タクシー業界に大変革が訪れたのは、ほんの半年前のことだ。その変革のきっかけは、更に五年前に遡る自動運転車の実用化だ。はじめは人間の運転を補助する用途、車庫入れであったり、高速道路など限られた環境での自動運転からはじまったが、あっという間に市街地であればほとんどの場所で完全自動化が成し遂げられ、それに合わせた法整備も驚くほどの速さで進められた。
これはタクシードライバーにとっては失業の危機以外の何ものでもなく、実際ドライバーを中心としたタクシー業界の労働組合は、タクシーの自動運転車への移行を行わぬよう積極的に働きかけた。そのかいもあって、当初は万一の事態への備えを理由に、自動運転車へ移行する場合でもドライバーを必ず同席させるということで組合と経営での合意に達することができた。
しかし、これが結果的に状況を悪化させることになる。
様々な要因に起因するものの、問題の本質は客とドライバーのトラブルにあった。特に酔っ払い客とのトラブル。元々数が多かったが、自動運転車へ移行して一層増えた。自動運転車の経路選択に対する不満や、ただ座っているだけのドライバーに対する誹謗中傷などが原因となって時には訴訟沙汰になることも増えていった。
誹謗中傷など客側の問題も多かったが、タクシー無人化の決定打になったのはドライバー側の不祥事であった。ドライバーが深酔いした客に暴行を働かせるよう誘導し、示談金を要求する事件が明るみに出たのだ。個人で行っている例もあったが、その後の調査ではほとんどの例でタクシー事業所などでそれなりの立場にある人間がドライバーに手引をしていたことがわかった。事件後に手の指などの軽微な骨折を負わせ診断書を取ったり、ひどいものだと医者もグルになっている例もあった。実際の数は少なかったのだろうが、世の状況を踏まえると業界不信を呼ぶには十分な要因だった。
このような事件が明るみに出ることによって、対人サービスにおいて品質や精度がまばらな(そして時には悪意を持って接することもある)人間をドライバーとしてタクシーに同乗させることに対しての反発が一気に高まっていったのだ。

「おまえはもう働かないのか?車の運転は好きだったじゃないか。あるいはタクシードライバーでなくても、何か仕事をしようとは思わないのか?」
運ばれてきたビールを受け取りながら空いたジョッキを店員に返すと、Sはそう聞いてきた。
「できることがあればやりたいとも思うがね。今どき人間様に出来る仕事は難しいものばかりだ。生きていられると思うとなかなか積極的にもなれなくてね。」
Nはそう言いながら店員から自分のビールを受け取ると、Sと軽く乾杯を交わした。
現役時代のNにとっては自分と大差ないと思っていたSだったが、現状には大きな隔たりがあり、それを認識させられてからは能力の差というものを感じずにはいられなかった。
(自分には何もない。)
自分自身の不甲斐なさを忌々しく思い俯いているNに、Sがこう返してきた。
「そうか、でもまあ、人それぞれだ。今はそれが出来る時代だしな。」
恐らく、Sには俺の気持ちはわからないだろう。Nはそう思うと自分自身が情けなく、またそれが伝わらないSに対してほんの少しの憎しみを覚えていた。
(こいつと飲むのは今日で終わりかもな。)
そう考えながら、Nはくだらない話題を努めて選んで話しだした。

実はタクシードライバーを不要と考えていたのは業界経営側も同じだった。自動運転車が導入されて以降、ドライバーはもっぱらトラブルの原因でしかなかったからだ。完全無人化によるコスト削減は人件費だけでなく、発生する問題への対応コストをほぼほぼ圧縮することができる。これはタクシー業界に限らず、サービス業全般に浸透した考えとなっていた。だから、各業界経営者たちは国や地方自治体と協力し、ある制度の制定を進めていた。タクシー業界のトラブルはこの新制度を推し進める格好の契機となった。
「基本労働力保障制度」、別名「ベーシックレイバー制度」と呼ばれるこの制度は、大雑把に説明すると、最低限の労働力の提供を保障すれば労働者を自由に解雇出来るという内容だった。タクシードライバーであれば解雇の代償として自動運転タクシーが一台、所有物として提供される。そしてその自動運転タクシーが生み出した利益は提供者のものになるという仕組みだ。もちろん手に入れたタクシーで個人営業をすることも出来る。しかし、ほとんどのドライバーは自分にあてがわれた「労働力」であるタクシーを、所属していたタクシー会社で運営させることを選んだ。タクシー会社で運営していれば、全損などの事故にあった場合でも新しいタクシーの割り振りを保障してくれたし、圧倒的に少なくなるとはいえ、十分に生きることが出来る程度の収入も労働使用料という形で保障されていたからだ。
わざわざ一定の収入を保障してまで解雇するのかと疑問に思うかもしれないが、ドライバーを一人雇用するのと自動運転車を一台導入するのでは社会保障なども含めるとそのランニングコストに雲泥の差がある。おまけに一方は均質なのに対して、もう一方の品質はてんでバラバラだ。経営者たちは金を払ってでもやめて欲しかったのだ。そしてなによりもロボット化によるサービス品質の均一化を望んでいたのは消費者だった。業界はそんな顧客ニーズをタテに新制度の導入を推し進めていった。そんな社会の要求にはもはや一業界の労働組合では抗うことができなかった。
NもSもこの制度によって所属していた会社を解雇され、代わりに自動運転タクシーを手に入れていた。そしてふたりとも自分のタクシーを会社に所属させた。
しかし二人の差はその直後に訪れる。Sに対しては、会社から再雇用の打診があったのだ。元々人懐っこい性格で人付き合いがよく気も利くSは多くの贔屓客を抱えていた。主には一般より少し収入の多い層の客達で、以前から本人への直接の連絡やタクシー会社への指名などで声をかけられることが多かった。長年の通例としてこういった個人を特定したサービスには応じないというスタンスを取ってきた業界だったが、トラブルによる不信感が蔓延する時期にあって、確実に客を呼んでくれるドライバーは会社にとっても重要な存在になっていたのだ。
もちろん自動運転タクシーのサービス品質は十分に高いものだったが、機転や察しが必要なある一定レベル以上のサービスは人間でなければまだ提供できなかった。ただ、全ての人間にそれができるわけではなかったのだ。
タクシー会社はSのような高いサービス品質を持った人材を顧客ニーズを理由に再雇用した。そして、品質の高いサービスを提供するドライバー同席のタクシーを無人タクシーよりかなり割高で提供するようになった。割高でも良質のサービスを受けたいという顧客は常に一定数いるものだ。自動運転タクシーの運用収入に加えて自己の収入を得ることでSの総収入も当然アップしていた。
一方、Nに声がかかることはなかった。彼は人と接することが好きではなかった。加えてドライバー時代、客の横柄な態度に度々憤りを感じていた。努めてそれを出さないようにしていたが、完全に隠せていたとは思っていない。要はその程度の意識で自分をコントロールしていたのだ。それはN自身が一番良くわかっていた。だからこそ、不愉快で自分勝手な不平等感を抱えて今を過ごしているのだ。それを押さえつけるために現状に満足すると決めているのだ。

「それにしても何かやったらどうだ。生活は保障されているんだから何だってやってみて損はないじゃないか。」
ふと会話が途切れたところでSがまた話しをぶり返してきた。だいぶ飲んで朦朧としていたNの意識が一瞬だけしゃんとした。
(俺に何が出来る。お前のように秀でたものが何もない俺が、いったい何をやるっていうんだ。)
Nはそれを言葉にはしなかった。山のようにいるタクシードライバーの一人でしかなかった立場から、顧客と会社に必要とされる立場になったSは、恐らく今、最高に充実した時を過ごしているに違いない。そんなSに今の自分の気持ちなどわかるはずがないのだ。不快感を押し殺してNはこう返した。
「まあそう焦ることもないじゃないか。せっかくの不労所得だ。しばらくは長い休暇を楽しむことにするよ。」
不快感をかき消すために酒を煽っていたNは、Sがそれになんと返したのかを覚えていない。ただ、その後しばらくは同じ飲み屋で飲んでいたようだ。Nが次に覚えているのは、Sのこんな台詞だった。
「今日は俺がおごるよ。最近羽振りがいいから、たまにはそういうことをさせてくれ。」
それまで何を話していたか全く覚えていなかったが、この台詞でNの全ての意識が帰ってきた。自分でも驚くほどの怒りが湧き、その怒りを同時に必死に押し殺した。しかしジョッキを持つ手は震え、Sを見つめる目に浮かぶ強い怒りを隠し切ることはできなかったようだ。
Sはようやく何かを察したらしく「しまった」というバツの悪い表情を浮かべてNから目を逸らした。その様子を見たNからは、不思議な事に一切の怒りの感情が嘘のように消え去った。そしてその代わりに、情けなさの底なし沼に首まで浸かるような感覚がNを包み込んでいった。
「ありがとう。せっかくだからご馳走になるよ。今日と言わず次も頼むぜ。」
(やはりもう二度と会うことはない。)
Nはなんとか言葉を絞り出すと、席を立ってSをおいたまま店を後にした。

・・・

「…サン、起キテクダサイ。ワタシハ営業二戻ラナケレバナリマセン。」
男はタクシーの機械音声に呼び起こされ、重いまぶたを開いて、またすぐ閉じた。
(このまま寝かせておいてくれ…)
苛つきながらそう考えた。恐らく男にとって今この瞬間に動かずじっとうずくまることは自分の内部を押し沈めるために必要な時間だったに違いない。しかし、機械は冷静に状況を伝えるのみだった。
「スデニ、今月ノ所有者利用時間ハホボ使イキッテシマッテイマス。コノママダト、労働使用料カラ差シ引カレルコトニナッテシマイマス。」
機械のその言葉をきっかけに、散々抑えこんできた感情はいともたやすく決壊した。それは相手が人でなかったからかもしれない。そういえば客によるタクシーの破損事件は無人化してからの方が多いと聞いた気もする。冷静に妙な記憶を思い返す頭と全くリンクせずに体と口が動いていた。
「そのぐらいの金が俺に払えないっていうのか!ふざけんな!てめぇは何様なんだよ!」
そういうと男は運転席のヘッドレストのあたりを蹴り飛ばした。どういう体制になればそんなところを蹴り飛ばせるのかわからないし、記憶にもないが、確かに運転席のヘッドレストを蹴り飛ばしたのだ。バキッという鈍い音がして、ヘッドレストを固定する部分とその周りを囲むプラスチックの仕切りが割れた。
「何ヲスルンデスカ。直グニヤメテクダサイ。本破損二ツイテハ、アナタカラ修理費ト営業補償ヲイタダカナクテハナラナクナリマス。」
機械の言葉は男の怒りを増長させるだけだった。
「ふざけんな!ふざけんな!」
俺は今、質の悪い酔っぱらいだ。俺が大嫌いだったやつだ。そう考えながら男は繰り返し椅子を蹴り続けた。機械音声も何かを繰り返し発していたがまったく耳には入らなかった。その機会音声が突然やんだ。男がその状況に一瞬気を取られていると、今までにない、ひときわ大きな声が、男に向かってこう告げた。

(ダレニ食ワセテモラッテルトオモッテンダ!)

明らかに感情のこもったその声は、果たして実際に誰かが発したものなのかどうかもわからない。しかし、男には確かに聞こえたのだ。

「…………すみません、……でした…。」

我に返った男は長い沈黙の後、一言だけそうつぶやいて、それきり何も言わずに、うつむいた。機械の声は、今後の手続きについてゆっくりと説明を始めた。

(終)

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