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和歌心日記 14 西行法師①

嘆けとて
月やは物を
思はする


 藤原晴家(ふじわら はれや)が彼女を初めて見たのは、彼の勤めるW大学の私の講義の教室だった。
 後ろから三列目の晴家から見て左端、つまり彼女から見て右端の席に彼女は座っていた。
 目鼻立ちはエキゾチックで、幾分耳が長く尖っている。その耳から垂れさがる緑色の石のピアスがとても印象的だった。そして、あの人に良く似ていた。

 晴家はこのW大学の博士課程に在籍しており、週に二度学部生の講師を務めている。
 専攻は日本文学史、平安時代の短歌、百人一首や藤原定家を研究している。

「藤原先生、なぜ月が主題の歌が多いのでしょう? 何か特別な意味があるのでしょうか? この時代の日本人にとって、それとも人間にとって」
 講義の終盤、彼女は真っ直ぐに上へ、そのほっそりした手を挙げて質問した。
「古の昔から月は、人間と重要な関係を築いて来ました。月の満ち欠けは太陰暦として使われ、人間の生理周期にも影響を与える。月に関する神話も多い。今も月に関する歌は多いし、月に関する話題も多い。しかし、どうしてか? という根本的な理由は私にもわかりません。申し訳ありません。もし良かったらみなさんも、本日の質問をきっかけに考えてみてください。なぜ、月がこんなにも人間の生活と関わっているのか。思わぬ発見があるかもしれません。私の講義を進める上でも月はとても重要になりますので」
 その少女は、幾分残念そうな顔をしながら手を下ろした。
 僕は講義の後、皆が教室を出て行ってからとても後悔した。せっかく皆の前で思い切って質問してくれた彼女の期待に応えられなかったことに。
 ほとんどの生徒が帰った頃彼女が壇上のそばに来た。やはり、そっくりだ。
「私は流菜・グローテルワイズと言います。先程は変な質問をしてすみません。困らせるつもりはありませんでした。ただ、もし答えがあるなら…と。そう思って質問しました」
「綺麗な日本語ですね。お顔立ちは日本ではなさそうですが、長くこちらに住まれているのですか?」
「ありがとうございます。ええ、長く。とても長く住んでいます。昔から和歌に興味があって、今も勉強しています」
「留学生かな?」
「いえ、N大学からの聴講です」
「そうですか。今日は期待に応えられず申し訳ありません。勉強不足でした。僕も調べてみます。望まれる答えがあるかは分かりませんが」
「ありがとうございます。藤原先生の講義、私は好きです。来週も楽しみにしてますね」
 彼女は笑った。しかし、それはあどけないというよりどこか老練な感じがして不思議な感じがした。
「あの、君は…」
「僕に10年前に会ってはいない、よね?」
「はい。会っていません」
「ごめんごめん、とてもよく似ていたものでね。確かに10年前だと、君はまだ10歳ぐらいになっちゃうもんね」
 僕は力無く笑い。彼女は少し首を傾げて、ぺこりと頭を下げて帰っていった。

「藤原くん、今夜の勉強会だけどね、隣のN大学から、何人か来るから、その後のお店を予約しておいてもらえる?」
「はい。わかりました」
 晴家が師事している日本文学の教授山脇賢太郎が晴家に指示を出す。彼は和泉式部日記の研究者だ。万葉集、宇治拾遺集などにも造詣が深い。
 
 晴家は、学部生に講義をするとき以外は自分の研究に没頭している。
 しかし、息抜きに神保町の喫茶店でバイトをしている。そこではいろんな人が在籍していて、良い出会いの場となっている。

 勉強会まで、晴家は大学の図書館で文献を読むことにした。さきほどの月の質問も気になっていた。
 なぜ月がこんなにも取り上げられるのか。
 確かにそうだ。月を題材にした作品は日本には本当に多い。和歌は数えきれない。現代の歌も数えきれないほど月が歌詞に出てくる。こと恋愛に関しては、むしろ月が出てこない方を探すほうが難しい。それほどまでに日本では月が愛でられてきた。
 小説も同様だし、過去の風習も、太陰暦を使用していた日本は月の満ち引きで日々が数えられている。
 しかし、何故なのか。これは大きな問いになりそうだ。
 とはいえ、今夜の勉強会は和歌に関する意見交換で、月にこだわるわけにはいかない。参加する隣のN大学は女子大だ。あまり院生は多くはない。しかし、もともと場所も近いこともあってサークル活動も共同で行なっているところも多く、学校同士の仲はとても良い。
 N大の佐久間教授は若いながら既に准教授。一部では天才とも呼ばれている。山脇教授の弟子と言われており、美人でもあり、話すだけでも緊張するが、話しているうちに自分の知識の浅さが露呈しそうでさらに緊張する。勉強会の後の食事会も気が引ける。プライベート含め、全人格で格下であることが痛感させられるからだ。
 仕方ない。これも研究室の仕事と割り切り、晴家は大学近くにある洋食居酒屋を予約した。

 果たして、その勉強会は山脇教授が万葉集の中からいくつかの歌を取り出し、その背景や修辞法について持論を展開した。
 生徒はそれを聴いている。途中に佐久間教授が質問をしたりして、話を横に広げる。しかし、その質問は、自分は答えを知っていながら我々の知見を拡げるためにしているように思える。
 それにしても知識が広い。二人の教授にただ感服しながら、自分は何を拡げるべきか、いや一つの分野に一度更に深く切り込むべきか考えこまされた。

 勉強会は2時間が過ぎたところで山脇教授がひとまず今日はここまでにしようと区切ったことで終わった。
 充実した時間だった。
「藤原くん、お店どこだっけ?」
 教授が尋ねる。
「あ、あのいつもの、山中亭です。7時半からですので、そのまま歩いてご移動ください」
 晴家は大きい声で教室の全員に告げた。三々五々みな教室を後にする。
 生徒が出た後、晴家が最後に教室の電気を消した時、不意に佐久間教授に話しかけられた。
「この後、懇親会だけ、一人追加していいかしら?」
「あ、大丈夫ですよ。今夜は貸し切りですので」
「良かった。ありがとう。あなたも会ったことある子よ」
「はぁ、そうですか」
 全く見当がつかない。まぁいいか。晴家は佐久間教授と並んで歩いて店に向かった。

「藤原くん、君の研究主体は何なの?」
「はい、百人一首を研究しています」
「そう。百人一首か。みんなが知っている分、裾野は広いし、かなり奥も深いからね。何かに絞って研究した方がいいかも。その後に広げて行く方が逆に全体が見えて来るかもしれないわ」
「はい、ありがとうございます。実は今日、僕の講義で聴講生が月について質問してきて、結局それに答えられませんでした。非常に恥ずかしい思いをしました。でも、月はそれこそ奥が深そうで、百人一首にもそれこそたくさん歌われていて、簡単に答えが出せないのかなと逆に感じています」
「そう。月ね。もしかしたら良いアプローチかも」
 佐久間教授が晴家の顔を不意に覗き込む。
「え、な、何ですか?」
「あなた、もしかしたら連れていかれちゃうかもよ。気をつけてね」
「え、どういう意味ですか?」
「そのままの意味よ。百人一首は深いからね。気をつけてね」
 佐久間教授は意味深に笑った。

 晴家が店に着くと、すでにほぼ全員揃っていて、佐久間教授の言っていた子も既にいたようだ。
「流菜ちゃん、こっちおいで」
 佐久間教授が手招きする。
「あ」
 僕は間抜けな声をあげた。
「知り合い?」
「あ、いや、あの、さっき言ってた月の質問の」
「あら、流菜ちゃんだったのね。話が早いわね。仲良くしてあげてね」
「よろしくお願いします」
 ぺこりと流菜がお辞儀をする。やはり似ている。
「おいおい、美人の二人はそっちに固まらないで、佐久間くんはこっちに来なさい」
 山脇教授に呼ばれて佐久間教授はテーブルを移る。流菜ちゃんはそのまま晴家の前に座った。
 晴家はほっとした。このまま佐久間教授と話していたら、学部生の前で化けの皮を剥がされてしまうところだった。
 食事が運ばれて来て、最初の注文を取る。ビールを飲む者もいれば、ウーロン茶を飲む者もいる。それぞれだ。流菜ちゃんはビールを頼んだ。強いのだろう。なぜかそんな気がした。

「今日はすみませんでした」
「いいんだよほんとに。回答は来週じゃないかもしれないけど、必ず返すから」
「はい」
「でも、流菜ちゃんは月に興味があるの?…あ、流菜って名前もルナとかから来てたりして…」
「そうかもしれません」
 流菜ちゃんは真面目な顔で答える。
「え、ほんとに? 冗談で言ったつもりだったけど、ほんとだったとは」
「ええ。だからいろいろ知りたいんです。皆さんの考えを」
「そうか」
 皆さんの考え。なんだろうなぜか既に自分は知っているような言い方だ。
「さ、食べましょう!」
 学部生の大河くんが威勢の良い声を出して、その場を一旦リセットする。
 基本的には学生が多く、話はいろいろな方向に飛び、学問というよりはゼミのノリだ。時間が経つにつれ、恋愛話になる。
 誰々が可愛い、誰々とデートした、あの教授とあの子は怪しいだの、よくあるゴシップの話題がその場を埋めた。

「藤原さんは、彼女いないんですか?」
 院生の泉川さんが聞いて来る。
「残念ながらね」
「え。まじ? 絶対いると思ってました」
「そうかな。そんな雰囲気でてた?」
「なんかいつも上の空な感じがあって」
「あれ、悪口?」
「違いますよ、親しみを込めてます」
「好きな人は?」
「…いないな」
「あれ、一瞬考えた! いるんだ。ダメ出すよ白状しなさい!」
「いやいや、いないよ」
「えー。言ってくださいよ。もし本当にいないなら?」
「ん?」
「立候補しちゃおっかなぁ」
「え?」
 晴家は困った顔をしてしまう。
「やだ、冗談ですよ藤原さん。真面目かっ!」
 そこでみんなが笑う。危ないところだった。

 晴家には忘れられない人がいた。

 しかし、その人に会うことはきっともうないのだ。それは遠い昔の思い出。晴家が10歳の時の話だ。
 目の前にいる流菜ちゃんを見て、不思議な気分になった。
 晴家はあの時に思いを馳せた。

続く
 


嘆けとて
月やは物を
思はする
かこち顔なる
わが涙かな

(現代語訳)
「嘆け」といって月が私に物思いをさせるのだろうか。いや、そうではない。本当は恋の悩みだというのに、まるで月のせいであるとばかりにこぼれ落ちる私の涙であるよ。


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