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永遠に永遠に ずっとずっと

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心が震えた ずっと忘れられないお話です。
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眠り姫

我が家には 眠り姫がいて 毎朝 眠りから起きることができないでいる そこで 毎朝、眠り姫を 抱きかかえて救助しているのだが その救助もあと3年くらいしかできない とても貴重な時間である 眠り薬が不要なくらいよく眠る次女も 学校では別人のように がんばっている 毎朝、救助の度に唱える言葉は 「今日も赤ちゃんからのスタートありがとう」 である 毎朝、叱られて起きるより 愛されている実感を感じてほしい こんなことでもなかったら 中3ツンデレ次女を抱っこすることなど 不可

イモムシから蝶になるまでの過程🐛🦋

イモムシ(幼虫)は 目の前に見える葉っぱを ただひたすら食べ続けて生きます。🍃🐛 (因みに目は6つある👀👀👀) イモムシの体内から 蝶(成虫)細胞が増えると イモムシはイモムシであり続けたいがために 成虫細胞が出る度 攻撃を繰り返し あらがい イモムシの身体を維持します。🐛 イモムシの体内で増えてはやられ続ける成虫細胞は やがて学びます。🙄💡 イモムシの体内から 成虫細胞にしか伝わらない言語(周波数)が生まれ 成虫になるための作戦を組みます。🤔

父親から子供たちへの愛あふれる映画だった~銀河鉄道の父~

 東日本大震災は、阪神大震災のトラウマを大いに引き起こし、原発事故は私の心を沈ませた。  そんなの考えても無駄なのに、何度「~だったら」とその先の世界を目の前に思い描いてしまっただろう。  この辺りの地域は農家が多くて、それを生業としている人たちでなくても自分の畑で何かしら育てている人が多い。ウチは、ここではよそ者だから、疎外感がありつつその風景を日々目にし、どんな天候でもその空の下、黙々と作業する方たちを尊敬する。私たちはこういった方たちのおかげでご飯を口にできるのだ。

【雑記】桜が大嫌いになったのは弟クニオのせいです(笑)

 今日3月29日は弟の國男の10年目の命日です。 今から10年前の2013年に44歳で亡くなりました。享年は45かな? でもまぁ20年以上の闘病生活で人一倍長い間苦しんだので、天に召すことで、ようやく解放されたんじゃないかと思います。 でもそのせいで私は桜が大嫌いになりました。 國男の死と桜が、どうしても結びついちゃって‥。  ヤツはその長い長い闘病の間、度々「もうオレ死にたい」と弱音をはいていましたが、その都度、私は常に フザケんなオマエはバカか?人は誰でもサダメがあるん

いつか行く26の旅 trip00

いつかは行ってみたい旅のプランが沢山ある。ここはそれを入れておくバケツだ。英語では「Bucket List」という。死ぬまでにしておきたいことを書いたカードを入れておくバケツだ。 映画にもなった。「最高の人生の見つけ方」、ジャック・ニコルソンとモーガン・フリーマンが共演した映画で、原題を「The Bucket List」(棺桶のリスト)という。(日本でも吉永小百合、天海祐希共演でリメークされた)。 ■1 アメリカ大陸を高速道路を使わずに「ブルーハイウェイ」二車線の国道で横

自分のために泣いてくれた先生の話

私は小学校の卒業式に出ていない。 息子の小学校の卒業式で、やっと卒業出来たような気がした。私の父が同席してくれたので、まるで自分の卒業式のように泣けてきたのを覚えている。 私にとっての子育ては、自分が親にしてもらえなかったことを丁寧にこなすことの連続だったような気がする。息子と娘がいてくれたお蔭で経験出来たこと、気が済んだこと、知ったことがとても多い。親への感謝を教えてくれたのも子ども達だ。 こんな未熟な私を親に選らんでくれた二人には感謝しかない。 小6の1月に、卒業

帝国ホテル

『渋沢の心が残るスタッフの笑顔美し帝国ホテル』 先月、父の仕事で帝国ホテルを訪れる機会があった。 こんな機会は滅多にないので、美味しいランチを予約しようとネットで検索。 【帝国ホテル ランチ】で検索すると 【IMPERIAL HOTEL】も出てくる。 美味しそうなレストランがあるが、IMPERIAL HOTELは帝国ホテルと近いのかなぁ? 父が他のホテルに移動するのは嫌がるだろうなぁ。 と考えて、帝国ホテルの中のレストランを予約した。 タクシーでホテルの入り口に降りると、

ノスタルジーと東京いぬ散歩の話

「小学生の時は、いつも(乗換の)渋谷駅で、棒を振り回してハチ公を追いかけ回していたねぇ。ハチ公はその都度、駅長室に逃げ隠れていたよ。 飼い主をずっと待っていた? 違う違う、あれはどう見ても"焼き鳥"だよ。当時は渋谷駅の横に焼き鳥屋があってね、ハチ公は目を輝かしてゴックン唾を飲み込んでさ、いつも売れ残りの焼き鳥を狙っていたのさ」。 そんなエピソードを話してくれたのは、犬散歩でいつも会うお婆さんだった。お婆さんは現在96歳。ハチ公のことをよく覚えている。 焼き鳥ばかり狙って

何故、支援学校の教師になったのか?

支援学校で28年間教師をしていました。とてもいい仕事をさせてもらえたなと思っています。 その間のことは、いくつかは記事にしましたが、私なんかの過去のことを書いても、読まれる方も退屈で、得るものも無かろうと思い、あまり書きませんでした。 しかし、この度、ある方から、書いてと言われましたので、突然ですが書かせていただくことにしました。 何故、支援学校の教師になったかというより、最初は、小学校の教師になるつもりでした。 大学を出て製薬会社の営業職になって5年目のある日、小学