プロローグ 後編のつもりで書いてた中編

後編です。
前編を書いてから二週間?程度であることに感動しています。もともと日記は続かない上、絶賛ヌケガラの状態で、このまま放置→終了も全然あり得たのに、よくやった自分。

自己紹介代わりのこのプロローグ後編は、脚本家から小説家にシフトしていった流れです。前編でも触れましたが、端的にその理由は、映画やドラマが「オリジナル作品を生むのではなく原作物を映像化」に傾倒していくという環境変化自体がしんどかったのと、さらにその変化の中で、とりあえず全国公開の商業映画の脚本家デビューを目先目標にしてしまった結果、

「上手いだけになっていた」


からです。
これには愕然としましたね。
上手いならいいじゃん、という声もありそうですが全くダメです。脚本や小説といったエンタメとは、あくまで「ハラハラした」とか「ワクワクした」とか「泣いちゃった」とか、ジャンルは何でもいいんですが、

目に見えない感動が売り物


なのです。
これも言うまでもないアタリマエなのです。なのですが、ここについても実際多くの人はアタリマエの深度が深まっていません。感動とは何なのか? 文字で書かれた脚本や小説と、映像や音楽の違いは何なのか? それらはどういうプロセスを経て人間の感動にたどり着くのか? このあたりも後々noteに記していこうと思いますが、とりあえず私の脚本から、これらの感動にリーチする力が減退し上手いだけになってしまった状態を極端に言い表せば、

読みやすい説明書


ということです。
説明書。私は嫌いです。初めて買ったプラモデルも説明書を読まずに完成させて、部品が余ったり完成形の内部でカラカラ音が鳴ってた記憶です。なぜなら読んでいて面白くない=そこに感動がないからです。その分、淡々黙々と効率的に内容を把握するために整理されているのが説明書の使命ですし、それは脚本や小説にも必要な要素ではありますが、それをすることが目的ではありません。なのに説明書を読まされているかのように、全然心を動かしてもらえない脚本や小説は多々あります。誰あろう私自身の脚本が、そうなっていたのです。。。

ここでヤバイと震え上がった私は、超絶集中して原因究明に全パワーと時間を使いました(具体的に何をしていたかというと、数日上の空でヤフー将棋をひたすら打ちまくりつつボーーーーッと考え続けただけですが)。結果「文字を媒介にして物語を具現化する」という創造行為についての私のアタリマエは少し深まりました。上手いだけでなく感動のある物語創作への再生方法はただ一つ、

本気でオリジナルに向き合え


でした。
大学生の時にコンクール用に初めて長編を書き上げたときの、あの得体のしれない達成感や無敵感を取り戻さねばならない。あの頃の脚本を読んでくれた人々ーーーーーープロデューサー、友人、知人からもらった感想は、
「これ本当に君が書いたの?」
「何かわからんがすごかった」
「読んでたら音楽が聴こえてきた」
「2回連続で読んじゃった」
などなど、少なからず読者の感動にリーチできた手ごたえがあった。それが今や原作物をプロットや脚本にする職人でしかない。貰える感想は「うまいねー、いやホントうまいねー」であり、それはつまり「面白くはない」ということです。最悪です。

そしてオリジナルを書くのなら小説の一択でした。当の映像業界がもはやオリジナル作品を生み出していく気概を捨て、原作楽々パックに傾倒しているのに、わざわざ脚本を書く理由がありません。脚本は書けるけど小説で表現する文章技術に自信がない、とかで腰が引ける人もいるのでしょうが、そこは私は全く気になりませんでした。むしろチャレンジすることへのワクワクが始まり、モード無双の予兆がありました。

このモードの時の私は我ながら頼もしいです。それまでも趣味として仕事として小説は読んできた人生でしたが、改めてその時点でのヒット作を読み漁り、各出版社の新人賞受賞作品もチェックし、またその選考過程の選評などから編集者たちの嗜好やレベルも分析しました。その結果、「イケる」という自信を得ました。

ちなみに脚本のときも小説のときもコンクールに応募してる段階で「自信がある」と公言する人に、ほとんど出会ったことがないし、私がそういった発言をしていると「えらい自信満々だね~笑」と冗談にとらえられることが多いし、皆がそういった反応をする思考プロセスも理解していますが、これまで私は自分が書いたものが「どの程度評価されるか?」という予測をおおむね当ててきています。映画でもテレビでもコンクールに出すからには最低でも一次選考は突破できると思えるものを用意し、それを達成し、時に先方からお声がけを頂いたりしてきました。よくコンクールは水物~と言われるし実際その面はありますが、私の知る限り「ちゃんと実力がある」と思える人は、結局どこに応募しても(よほど運悪くレベルの低い一次選考の審査員に当たっちゃうとかでなければ)何かしらの結果や手応えを得ています。

そしてそれは実はある程度はアタリマエだったりします。

なぜなら空想の世界を文字に具現化して現実を生きる他人に伝える(だけだと説明書止まり)のみならず、その物語空間に没入させてトリップしてもらうという目的自体が、そもそも普通よりは高い客観性(分析力や評価力に不可欠)くらいはアタリマエに標準装備していなければ説明書段階すらクリアできないからです。その客観性をもってして、自分が書き上げた作品を自分で厳しく審査することができれば、どれくらいの評価を得られるのか大雑把には予測できるはずだし、逆にある程度は予測できなければ、今度はそもそも作品自体に客観性が備わっているかが怪しくなってきます。

油断するとすぐに自己紹介の範囲を超えて、今後記そうと思っているトピック方向に冗長しがちですが、まあ要するに私としては、分析して「イケる」と思えたら、あとは入魂のオリジナルを書くだけです。幸いにして最大の難所の、

「これはヤバイ。ぜひ文字でこの世に具現化して自分で読んで没入してみたい。これなら上手さに感心してくれるだけじゃなく、言葉を失って感動してくれる読者もいるかもしれない。そのために複雑な構成を考えていくとか、はたを織るかのように一行また一行と延々綴っていく作業は超絶疲れそうだし面倒くさいが、完成させられれば達成感が勝りそうで勿体なくて書かずにいられない」


の状態を奇跡的にすぐにディスカバリーできた私は(長年、全集中のオリジナルから遠ざかっていた飢えがあったから?)、さっそく執筆を始めました。小説を書いたのはこれが人生初でしたが、結果的にその作品で大手出版社の新人賞を受賞し上梓しました。

と、またまた長くなっているので、これは後編のつもりで書いていた中編ということにして、次回、三度目の正直の後編に続けます。こうやってユルユルで順延していけるのもネットならではですね(自己正当化無法地帯)。














おねげえしますだお代官さま。