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【書評】『宮下草薙の不毛なやりとり』・ベルクソン・道<タオ>

不毛なやりとりが引き起こす"笑い"には、いのちあるものの優美さが、そして、そのささやかな抵抗が、照らし返されているのかもしれない。


本書は、人気お笑いコンビ「宮下草薙」の二人が雑誌『TV LIFE』上で定期連載しているコーナー『宮下草薙の不毛なやりとり』を、同名で書籍化したものである。本人たちのインタビューや先輩芸人との対談を併せて収録しているが、全25話にわたって繰り広げられる不毛なやりとりが、とても面白い。

そのすべてが例外なく、宮下と草薙の何気ない日常会話の1シーンを切り取った対話篇として描かれていて、本当になんの出口もなく、なんら生産性のない、どうでもいいやりとりとして進行していく。そのどうでも良さが自然と頬を緩ませ、どこに向かうでもない変なこだわりやちょっとした言い回しが笑いを誘う。

さて、いわゆる「不毛なやりとり」は、現実世界のなかでも山ほど存在する。むしろ、日々の暮らしにおいて、なにも産まず、そして特に面白くもなく、ただただ煙たいだけのやりとりにこそ、人は取り囲まれているように思える。

しかし本書と違って、現実世界におけるそうした不毛なやりとりのほぼ全てが、なんの笑いをも生まないのはなぜだろう。

不毛の大地と目的の大地

不毛の意味にまで遡ってみよう。

【不毛】
1.土地がやせていて作物や草木が育たないこと。また、そのさま。
2.なんの進歩も成果も得られないこと。また、そのさま。
-『大辞泉』

上記2つの意味のどちらにおいても、「何かを得られる」可能性が欠如していることが、不毛の要件であるらしい。

現実における大体の場合でも、我々はなんらか”毛”が出ていること、あるいはなんらか"毛"を出せることを期待し、企図しながら、不毛の地に踏み込んでいく。

とにかく誰かに話を聞いてほしくて、なににもならない些細な出来事を語り出すとき。議論を前に進めたくて重ねた対話が”結果として”噛み合わなかったとき。

こうしたことは、われわれの生きる日常の中での意識の関心ごとが、逃れられない目的の連関のなかに常に位置づけられてあることを表している。いい生活を送りたい。いい仕事がしたい。誰かに承認されたい。一見して不毛と見えるいかなるやりとりにおいても、人はつねになにかを期待する。その意味において、われわれが日々生み出す不毛は、「不完全な不毛」であるとも言えよう。

他方、まったき不毛、永久凍土のごとき不毛の極地においては、能力的な不毛さとともに、「意志の無さ」が切り離しがたく存在している。そこでは、作物や草木を育てる意志が存在せず、進歩や成果に向けた意志がまったく存しない。先の通り、無数に渦巻く目的連関の世界のなかで、我々がそうした状況に身を置いて、意識的にせよ無意識的にせよなんらの意志をも持たずに行為することは、極めて難しい。

そしてここにこそ、本書の不毛なやりとりが人を笑わせる理由がある。

不毛の大地が育む『笑い』

フランスの哲学者ベルクソンは、1900年の著書『笑い』において、人間に笑いを引き起こす意識のメカニズムを、斬新で鋭い論理で紐解いている。

ベルクソンによると、笑いは「ぎこちなさ」から生まれる。

ぎこちなさとは、彼の言葉によると、いのちあるものが時たま垣間見せる、自動機械としての振る舞いである。ふだん、日常生活を送るわれわれの意識は、常になにかしらの物事に対する注意力をはらむ緊張状態のうちにある。そうした目的と意志の世界のなかで、それでも時たま、ふっと緊張が解け、意識が前面から退くとき、身体は反復的な記憶のみを用いて操縦される自動機械のように、極めて物質的に振る舞う。そこに漂う無関心さ、無感動さ、その「ぎこちなさ」が、周囲の笑いを誘うという。

また同時に、笑う側にも同じことが言える。日常の目的による精神の緊張、なにかに向けた注意力が緩んでいるとき、人は笑う。まさにその瞬間に、意識が奥底まで立ち退いた、単なる物質としての冷たい身体が見いだされることになる。

たしかに、誰かの話や身振りに対して、憐憫や愛情、感動などの明確な感情の動きが伴うとき、人はなかなか笑わない。そういうところから一切の距離を置き、”生活の必要”から切り離されたところで、笑いは奔放に動き回る。

宮下と草薙の非建設的などうでもいいケンカでは笑えるのに、現実世界でのどうでもいいケンカでは一切笑えないのは、われわれのケンカには意志と情動が強く結びついているからである。

笑いは、目的と意志の大地から遊離した不毛の大地において、はじめて育まれる。

生命の意識の躍動を捉えるベルクソンの”いのちの哲学”が見抜いたのは、意識と鋭く対立する静的で冷たい「物質」とともにある「笑い」であった。

社会のなかの不毛の箱庭

『宮下草薙の不毛なやりとり』における”不毛”なやりとりに、人は造作なくこうした類の「ぎこちなさ」を見て取るだろう。なんの建設的な成果物をも産まず、生活の目的に対して徹底的に無関心な二人に、不毛の大地をさまよい歩く機械的で動物的な振る舞いを見出すことは容易い。

なにせ、本当に、何も産まないやりとりで埋め尽くされている。もちろん一定の創作・装飾はあろうが、それでも、「トイレに一緒に行くかどうか」「今から2人でゲームを始めるかどうか」「寝るかご飯を食べるか」などについてのそれぞれ短い対話は、控えめに言って不毛の極北に位置する。「いま自分は何を読んだんだろう」という感覚とともに、その不毛さに、自然と笑いが漏れてくる。

ベルクソンはまた、笑いは社会的な所作であるとも指摘している。社会の中で形づくられる一般通念が、われわれの笑いの有り様に影響し、作用するからこそ、極めて個人的なはずの「笑う」ポイントが、各人でそこまで違わなかったりする。

本書における不毛なやり取りは、この社会のなかでとても希少な、とてもとても小さな”不毛の箱庭”を創り出し、そこに赴く読者の意識は硬直化し、そして笑う。

目的の箱庭~反転する不毛さ

われわれが生きる目的連関の世界では、常に注意を巡らせて、何かを生み出し、何かを消費するように、そして目的を持って日々を生きるように教わってきた。”どれだけ生産的であるか”が「まともさ」の基準を作り危うく一生懸命生きるところだったことに気づいただけで本が一冊書けるほど一生懸命に日々を暮らしている社会なればこそ、それも頷けることだ。

時間は有効に使わなければならない。いい人生を歩まなければならない。幸せにならなければならない。そのために、常に学ぶ必要がある。インプットをしたらアウトプットをする。そしてその次にまたインプット、アウトプット。アウトプットはインプットよりちょっと多めにすること。アウトプットはできるだけ一般公開して、人からフィードバックをもらうこと。

「インプット」「アウトプット」「フィードバック」と呼ばれるものが実のところなんなのか、誰がこのサイクルを回しはじめ、そしてそれはいつになったら終えてよいのか。そうしたことを誰も分からないまま、サイクルは回っていく。蒸気機関が産み出す無限のエネルギーに駆られ、資本主義のサイクルを無限反復し続ける。

生命の無限の豊かさが躍動する意識を遠ざけ、目の前の生活の必要に身体を委ねるこのサイクルが、しかし自動機械でなくてなんだろうか。ここにおいて、われわれの日々が、自己実現が、そして目的連関の全体が、不毛さへと反転しゆくことになる。

目的連関の世界と対峙し、そのむなしさを喝破した思想家が、2,500年前の中国にいた。道教の始祖であり、諸子百家に名を連ねる中国思想の巨人、老子である。彼の伝える”無為自然”の境地は、目的を持って充実した生を生きようと努力する人々に向け、そうしたことの無意味さを諭す

われわれは通常、より多くの知識を学び、吸収していくことを求められる。常に成長し、その知識を有効利用して、みずからの人生をできるだけ良い方向に向かわせようとしているし、現に日々、陰に陽に周囲からもそうした姿勢が求められているのではないだろうか。

老子に言わせれば、そうした努力の仕方は、あまり良い結果を生まないという。

何かを学ぼうとしながら生きていると、日々知識が増えていく。逆に、「道」に向かうとどんどん知識が減っていく。さらに「道」に向かうと、さらに知識が無くなってゆき、最後にはなにも意志せず、何も持たない「無為の境地」へと至る。無為に至ると、ものごとがこじれるような余計なことは何ひとつしなくなり、それゆえ、この世界をわがものにできるようになるのだ。

道<タオ>は水のように漂い、自ら何も欲せず、低きを流れ、それでいて、否、それだからこそ何よりも強く、決して壊れることがない。

常に有用さを求め、有為の世界を生きるわれわれこそが、実はせまく囲われた箱庭のなかにいる。万人が意味を追いかけ続け、有意義さにこだわることで、万人が脆く、そして不幸せになっていく。そこに、大いなる無意味がある。この位相転換が老子の真髄であり、その精神はのちに、仏教の奥底に刻まれ、中世日本へ伝来していくことになろう。

タオは笑っている

宮下草薙のやりとりの、その不毛さを笑うとき、”毛”にまみれて目的の箱庭に囚われたわれわれもまた、(ベルクソンのいう「意識」であれ、老子のいう「道<タオ>」であれ、)精神の深奥にある意識から、その”不毛さ”を大いに笑われているのかもしれない。本書を読んだ読者がこぼす子供のような笑いも、そうした「ぎこちなさ」の表出で無いと、どうして言い切れるだろうか。

人生の中に少しの不毛を見つけ、それを追いかけ回す時間をつくることは、意識の休息にとってとても効果の高いライフハックであり、それ以上に、目的の鎖の外側で真に豊かな生を生きることへの一番の近道であるのかもしれない。

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