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ギリギリアウトの生きやすさ~木ノ戸昌幸 『まともがゆれる』

―常識をやめる「スウィング」の実験

障害者支援のNPO『スウィング』を営む著者が、まいにち施設の入居者たちと一緒に巻き起こしている様々な取り組みや事件などを、面白おかしくはちゃめちゃに綴ったエッセイ集である。

施設入居者の創作詩やイラストなどを適宜はさみながらゆるく進行していく本書だが、扱うテーマはセンシティブで重いものだ。

”社会”の中で「うまくお金を稼ぐ」ことに最適化される「まとも」な人々と、そこからはみ出してしまった「ギリギリアウト」な人たち。この対比と境界線はしかし、本書を読みすすめるにつれ、徐々に曖昧になってゆく。

会社にうまく馴染めず、辛い思いをしながら暮らしていた人たちが、スウィングでの日々のなかで、徐々に元気を取り戻し、周囲の人達と笑いあえるようになる様が多く描かれている。

自他の「弱さ」「ダメさ」を認め、笑いあいながら、それを日常として、自由に元気に生きてゆく。それを肯定し、見守り、背中を押していく施設のメンバーたち。それぞれのダメさを見つめ、そこから出発し、「ギリギリアウトを敢えて狙う」というポリシーは、すごく印象的なものに映った。かつてギリギリアウトだったものは、続けていく中で少しずつセーフに変わってゆき、まともの範囲が、「生きやすさ」の範囲が、少しずつ広がっていく。

「ええ加減『まともに』できるようになりたいを捨てて、自分自身の『らしさ』に賭ける勇気を持て」

著者が、スウィングでともに働く同僚スタッフにかけた言葉だ。本書の中に散りばめられるこうした言葉のひとつひとつに、いちいちハッとさせられる。


ときに必要以上にシリアスに聞こえるこの手の話は、しかし別に何のことはない、われわれの誰にだって、どこにだって当てはまる話である。日々それぞれが、大小様々な生きづらさを抱えながら、社会に適応しようとして苦しんでいるはずだ。よくよく周囲を見渡すと、どれだけ活躍しているように見える人でもいろんな凸凹があって、真にまともな、真に平均的な人間などどこにもいないことに、我々はすでに気づいているはずだ。確固たる「まとも」が仮にあるとするなら、全員が、危ない橋を渡っている。

元来、「狂気」というものは、我々の日常の中に自然に溶け込んでいるものだった。フランスの哲学者フーコーが『狂気の歴史』において明らかにしてみせたのは、そうした狂気が、古代の昔からそこにあったようなものではなくて、様々な社会的イデオロギーの中で出現してきた比較的新しい観念である、ということだった。社会の中に織り込まれ、ときに神聖なものとすら捉えられていた狂気は、近代合理主義の発展やブルジョア階級の成立により、規範から逸脱したもの、非理性的なものとして括りだされ、精神病という枠に押し込められるようになった。

そう、社会は、様々な利害関係のダイナミクスの中で、「正気」を、換言すると「生きやすさ」の範囲を、自らの手で徐々に狭めてきたのである。資本主義社会の発展のため、作られた「まとも」に則した選別をみなが受け、そして少しでも「まとも」であるべく、日々を暮らしている。

そうした生きづらい社会を、ギリギリアウトを狙いながら、おもしろく見直していくことの重要性が、本書では説かれている。

また、「差別」についても、著者はいう。

誰かに自分との「違い」を見つけ、何かを感じ取るのは自然なことだ。変だと感じるものは変、妙だと思うものは妙、理解できないものは理解できない、心の動きに制限をかける必要はまったくない。
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なかったことにしてしまうから、うわべだけの平等論や理想論がじわじわと社会を包み、結果として偏見や差別がより根強く残ってしまう。相手のことをよく知りもしないのに、「偏見を持ってはいけません」「差別してはいけません」とやかましく言われるうちに、なぜダメなのか?を考えること自体がタブーのように思えてきて、「じゃあ、もう見ないことにしよう」「いないことにしよう」と、煩わしい他者との関わりを避けるようになってしまうからだ。

以前、平田オリザ『わかりあえないことから』の記事の中で、他者との通約不可能性から再出発することについて書いた。

どだい分かり合えない他者を「個」としてありありと感じ、全くのゼロからコミュニケーションを図ってゆくことは、これからの時代に真に求められる所作だろう。「まとも」はいつだって、寄る辺なく漂う小舟のように、揺れ動いているのだ。


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