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客観的世界の崩落~ユクスキュル『生物から見た世界』

生物が世界を認識する「環世界(Umwelt)」という挑戦的なモデル提示によって、我々が見ている世界の虚構性を明らかにした超有名本。

人間とモノ自体の転覆

宗教に限らず、人間を他の生物に比べて特権的な存在として一段棚上げする論は根強い。進化論が受容されはじめ、生物学の進展も著しかった20世紀初頭においても、その認識は未だ健在であった。

例えば、デカルトは『方法序説』において、魂を持った人間と異なり、動物は自然法則 ―デカルトの「自然(physis)」は絶対的で一なる神の概念と地続きなものであるが― により数多のパーツが精密に組み上げられた機械であると主張している(動物機械論)。

優れた生物学者であり、同時に在独の哲学者としてカント哲学の衝撃をもろに受けた著者ユクスキュルは、本書で、そういった動物の捉え方に果敢に挑戦する。

カントは、モノなどの対象が我々の認識を構成するとされていた伝統的な見方に対して、人間の主観の先天的な形式(時間や空間の認知様式)などが認識を形作ると唱え(超越論的観念論)、それまで2000年に渡る西洋哲学の根幹をなした形而上学を決定的に破壊してしまった。これを、カント自身の言に沿って、コペルニクス的転回という。

ユクスキュルの環世界論は、このカントの超越論の受容から出発し、その思考を生物学的な世界観に押し拡げたものである。

環世界論と機能環

ユクスキュルは、各生物が世界を認識するにおいて、「知覚世界」と「作用世界」といった系を前提する。

主体が知覚するものはすべてその知覚世界( Merkwelt)になり、作用するものはすべてその 作用世界( Wirkwelt) になるからである。知覚世界と作用世界が連れだって環世界( Umwelt)という一つの完結した全体を作りあげているのだ。

客体(外界)からの感覚刺激が知覚となってその主体に認識され、その知覚標識の内容に対して加えられた判断に応じて定義された行動により、外界に対して作用する。そして、作用によって撹乱された新たな知覚の到来が続くこのループを、著者は「機能環」と呼ぶ。

そして、「一つの主体が多くの機能環によって同じあるいはさまざまな客体と結ばれている」ことの総体として、その機能環の様式に特有な世界が認識されることとなる。

五感を持ち、時空間の認識力がある人間の複雑な環世界と比べ、単純な生物の機能環はずっと少なく、その環世界はよりシンプルであると、著者は言う。

マダニにとっての新”世界”

本書では、盲目で耳の聞こえないマダニ(ダニの一種)のたった3つの機能環の分析から、ダニが「見る」世界について考察しているのだが、これがとても面白い。

マダニは、哺乳動物の血液を吸って生きているが、その行動原理は至ってシンプルだ。

表皮全体に分布する光覚により獲物の狩場となる枝などによじ登り、獲物となる哺乳類の皮膚から発する酪酸の信号をキャッチして、その方向に身を投げる。最後に、その温度感覚を用いて目的の場所に達したことを知ると、その皮膚に頭から食い込む。

また、驚くべきことに、こうした知覚標識のいずれも発火しなかった場合、マダニは数年単位で待つらしい。おそらくは、彼には時間間隔も、ストレスを感じる機能環も、存在しない。

マダニは、たったこれだけの数の原理を統御しながら暮らしており、そこには3次元的な空間や方向という概念はなく、色も形も、そこには存在しない。いや、マダニにとっては、人間に見えているような豊穣で複雑で立体的な世界は、認識する意味がないとも言える。

彼らに”見えている”世界は、酪酸や体温の信号の強弱のみが瞬く、漆黒の闇が一面に広がるような世界なのかもしれない。

あらゆる生物にとって、その「必要」が、”見える”世界を定義する。我々人間にはたまたま世界がこのように見えているだけであって、生存のための条件が違う動物種の数だけ、その機能環の構造の数だけ、異なるあり方の世界が存在する。

多様な「世界」と「主体」礼賛

本論は、ゆえにカント哲学の自然科学的な展開なのだ。この、世界や認識を巨視的に、しかし還元的に切り出す理路と仮説の美しさ、面白い動物たちの行動実験の数々に魅せられる。ハイデガーもまた、ユクスキュルに影響を受けた一人である。

他方、人間と他の生物に相違なく現れる「主体」の概念を括りだすことが著者の意図であったなら、本書はそこに到達していないと言わざるを得ない。
生物の主体を、認識の主体としてではなく、受容-反応系としてあくまでシステマティックに捉えることと、それの集積であるなにか、それら個々の知覚が統合された総体としてのなにかを措定することの間には、一定の隔たりがあるように思える。そして本論が前者の観に留まるならば、それは著者が訣別したはずの動物機械論の範疇を、実は超えていない。また、後半に出てくる「作用トーン」あたりの話までくると、迷走はその極みに達するように見える。その射程の大きさゆえに、科学書として読むと正直緻密さ/体系に欠け、ツッコミどころ満載な側面があるのも実際のところ否定はできない。

著者が奪還したはずの生物たちの主体的世界は、我々の認識の網目をするりとすり抜けて、どこかに消えてしまう。本書が発刊当時から、科学的でも哲学的でもない怪しい言説として遠ざけられがちだった理由も、このあたりの曖昧さにあるだろう。

ただそれでも、本書が描き出す異質な「世界」群のビジョンと、そこに迫る生物学的なモデル構築は、我々の精神が絶対に経験しえないものに理性の力のみを頼りに光を当てていく力強さを感じるし、自然科学的な「客体」が科学的なアプローチで切り崩されていくさまは圧巻であった。

みずからにこの事実をしっかり突きつけてみてはじめてわれわれは、われわれの世界にも一人一人を包みこんでいるシャボン玉があることを認識する。そうすると、わが隣人もみなシャボン玉に包まれているのが見えてくるだろう。それらのシャボン玉は主観的な知覚記号から作られているのだから、何の摩擦もなく接しあっている。主体から独立した空間というものはけっしてない。それにもかかわらず、すべてを包括する世界空間というフィクションにこだわるとすれば、それはただこの言い古された 譬え話を使ったほうが互いに話が通じやすいからにほかならない。
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