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"認識"の夜明け~デカルト『方法序説』を読む

久方ぶりの再読。本文で90p弱の短文なんだけど、写経&要旨まとめをちまちまやりつつ精読してたら結局足掛け2ヶ月ほどかかって読了した。

近代合理主義の始まりの地であり、現在「科学」と呼ばれるあらゆる探求活動の礎となった、あまりに有名な一冊。哲学書のわりには全体的に平易な文章で読みやすいが、根っこを丹念に紐解いていくと、その形而上的考察は深く、科学の本質を捉え未来に投げかける眼差しはとても鋭い。

そしてまた、長らく中世を覆ったネオプラトニズム-スコラ学の重さと陰鬱さが逆説的にすごく映えたが、その超克のまさにその瞬間の緊迫感は、輪をかけるように荘厳だった。

本書を理解する上で一番の難所はやはりコギト命題

「われ思う、故にわれあり」とは言うけれど、「思う主体」としての彼が依拠する”明晰性”や、これの帰結としての心身二元論は、ともにかな~り緊迫した概念の綱渡り。

明晰性、より厳密に「明晰判明性(clarus et distinctus)」とは、デカルト哲学を貫く主要概念であり、彼の世界において真なるものを判定する基準である。

すべてを懐疑した後、疑い得ない「私」の確実性から出発し、しかし「世界とあらゆる物事をどう真なるものとして復権させるか」、これがデカルトに課せられた課題であった。私の必然性から再度外界に目を向けて一歩外に出たとき、周囲の物事はやはり依然として幻想的で捉えどころがない。

この難所を、彼は「神の完全性」を媒介として乗り越える。そして、神から私に<分有>される完全っぽい観念と、それに依拠した私の認識の明晰性を携え、客体の世界に切り込んでいく。

きわめて明晰判明に私が知覚するすべてのものは真である。

ここにおいて、始めは夢うつつで悪魔に騙されているかもしれなかった私の「認識」能力は、神の崇高さを纏ったものに格上げされる。デカルト流の立論には、こういう脱出口しかなかった。

ここをまともに受け止め、「明晰性とは何か」「明晰でないという観念はどう生じるか」等々をえんえん考えてたら、さすがに頭が沸騰した。そもそも「疑う私」の必然性自体がそんなに確固たるものではないように思えてくるし、すべての地盤が再々揺らぐ。「神」という概念それ自体にあまり馴染みのない頭で考えても、なんとも掴みどころが少ないのかもしれない。

その後の哲学者たちの議論に救いを求めると、イギリス経験論、とくにバークリー/ヒュームあたりの「観念の束」概念―意識とは、雑然とした観念の束であり、それらを一つずつ除いていった先に「私」というものは何ら存在しない―と、それらの「経験」から客体としての世界を明確に立ち上げていく説明方式の方が断然スッと入った。認識論としての『序説』は、華麗に乗り越えられる。

しかしそれでもなお、”懐疑”を方法にまで高めた本書の価値は、一切揺らがない。

本書に連なる3試論「屈折光学」「気象学」「幾何学」が科学的功績としてどこまで顧みられたかまでフォローしてないが、デカルトの、徹頭徹尾ストイックに真理に迫る姿勢と行動とその学術的なカバー範囲はまじで驚嘆モノであった。本書を通して、人類は世界の真理に迫るための実践的で明晰的な方法を知ったのだ。

そして第6部で語られる、絶えず新しい真理を見出す習慣と能力を得る事こそが大事という、真理探求の同士たちに向けた優しくも力強いアドバイスは本当に心に刺さる。

成果共有の重要性を指摘しつつも自身人から教えられることは良しとしない姿勢とバランス感のなかに、現代科学の積み上げアプローチの枠組みの中にあって片時も忘れては行けない科学者個人としての探求の規律を見出さなければならないし、それは真理探求に関わるその他全ての人にも言えるだろう。

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