見出し画像

”余剰と交換の経済史”~『父が娘に語る 美しく、深く、壮大で、とんでもなくわかりやすい経済の話。』

たしかにわかりやすい。Audibleで聞くのにもちょうどいい塩梅だった。


あえて本書の構成を2分割するなら、前半はさながら”余剰と交換の経済史”といった内容。人類が集団で農耕を営みはじめてから、現代のような市場経済が形成されていくまでの、いくつかのキーワードで捉え、ダイナミックに描いていく。経済の話というよりも、市場を舞台にした人類社会の歩みを描くグローバル・ヒストリーとして読める本書は、わかりやすさ以上に説明モデルの明快さと面白さで評価されるべき本だ。著者自身、序盤の章はユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』にも大いにインスピレーションを受けていると語っているように、歴史描写の名手ハラリに勝るとも劣らない軽妙で平易な語りのなかに、数千年のスケールにおける文化・文明の壮大な変転と成熟とがにわかに姿をあらわす。

著者は言う。「余剰」はすごい、と。狩猟の時代が終わり、人類が農耕を始めたとき、はじめて余剰が生まれた。農作物を大量に収穫し、保存しておくことができるようになった。共同倉庫に保存したそれぞれの農作物を管理・記帳する必要から、文字が生まれる。資源が貯蔵されるから他の集落から狙われるようになり、軍隊を組織し、高い城壁を築き、国家が生まれた。etcetc...

「帝国主義の列強国家はなぜ西洋に固まったのか」というこれまた鋭く優れた問いが、「余剰」の問題圏を近代にまで手繰り寄せる。自然資源が豊富な地域では余剰(貯蓄)は必要ではなく、気候帯の多様も農耕技術の地域内伝播を遅らせる。

均衡や所得勘定といったメジャーな概念に一切触れずに、マクロ経済がこんなにもシンプルなストーリーで言い表せるのかと、読者は舌を巻くことになるだろう。


後半はぐっと時代が近づいて、近現代の市場社会のメカニズムが、身近な例を交えながら噛み砕かれていく。

ここでの中心概念は「借金」である。著者によると、実にここ300年前まで、人類はほとんど市場に頼らずに物々交換で日々の暮らしを営んでいたという。「経験価値」(関与する個々人にとっての主観的/実践的な価値)が「市場価値」(需給によって決まる値札)に取って代わられ、商品が生まれた。商品は産業革命とグローバル貿易の広がりの中で世界を飲み込むが、その生産のロジックにも大転換が起きていた。封建制から開放された個人がそれぞれ事業主となり、借金をして土地を借り、利益を追い求める必要に駆られる。市場社会では富は借金から生まれ、資本主義化で複雑にネットワーク化された金融商品の交換の中で、人間は労働力として固定されてゆく。


とくに、経験価値から交換価値への変遷は印象的なトピックである。おばあちゃんからもらった形見の時計と思い出は何物にも代えがたく、それがmercariで1,500円で売れる事実との間には、実質的・実在的な相互交流はまったくないはずだ。著者は交換価値優位の趨勢にネガティブな眼差しを投げかけているが、他方、「お金に換算されないものは汚されてしまう」とも述べている。その最たるものとして引き合いに出されるのは環境破壊である。誰の利益にもならない環境保護が後回しにされてしまうという交換価値経済の”市場の失敗”に、現代は対応を迫られてきた。解決の方向性のひとつとして、排出権取引などのように、経験価値をできるだけ交換価値に変換していくことが提示される。

実はこの記事の筆者は環境学専攻で排出権取引周りも詳しいのだが、たしかにかけがえのない資源それ自体を可視化・定量化し、仕組みとして交換経済の中に入れ込んでしまうことの威力は大きいが、反面、経験価値の観点からは悩ましい部分も多い。

わりとポップな例えでいうと、あのイーロン・マスクがやっているEV(電気自動車)世界首位の自動車会社TESLAはすでに累計100万台ぐらいを販売しているのだが、従来車と比べてCO2排出の抑制できた分だけ(販売台数に応じて)CO2排出権を付与されている。この排出権をCO2を沢山排出して罰金を課されそうな他の企業に売った利益が、TESLA社の現在の利益のうちの比較的大きな割合を占めている。こうしたインセンティブが働く制度の存在により、環境フレンドリーな会社が優れた利益構造を保ちやすく、シェアを拡大していくことで社会全体の排出量削減につながる。

しかし、これには弊害もある。”環境保護”に値札を付けて市場の中で交換可能なものとしたとき、産業を担う各主体が環境保全の意識を持ちながら、自律的に自然と共生した持続可能な活動を行っていくというモチベーションが育まれにくいという弊害だ。お金があれば解決できるという解釈も、可能になってくる。自らの手で、自らが吸う大気を守っていくという、なにものにも代えがたい経験への道を閉ざしてしまうこの仕組みは、だから諸手を挙げて喜べぶべき状況ではないかもしれない。70億人の意識と草の根運動がモノを言う類の問題にとって、市場だけでは足りないかもしれない。

市場経済があらゆる市民生活を覆い、社会の全体がそこでのサバイブと最適化を目指して動いているとき、代えがたい地球や日々の大切な価値観を無機質な交換価値へと”翻訳”することは、とても有効な場合があるし、それで失われるものもある。おそらく、「徹底的に交換価値に変換しよう」も「経験価値を復権しよう」も、それぞれ単体では完璧な答えにはなりえない。


そもそもエコノミーとは、その語源を紐解くと、決して交換価値に閉じたものではない。

エコノミーという言葉もまた然りです。それはオイコス(家、oikos)のノモス(法、unomos)というギリシャ語に由来しています。奴隷のたくさんいる大きな家をどう切り盛りするのが理に叶っているか、それを説明し、そのための処方箋を示すのがアリストテレス(『ニコマコス倫理学』)の構えでした。
...経世済民の国家学たるべき経済学は、政治の権力、社会の慣習そして文化の価値などの諸要因にかんする考察を必須とする、とみておかなければなりません。
―西部邁『昔、言葉は思想であった』「経済(Economy)」

西部がここで指摘するように、経済とは本来、社会の慣習、共同体の規範に関わる道理の総体を指すものだった。そこでは、周囲の人達を含むわれわれが暗に合意している”みんなの価値”が問題となり、その価値に照らして求められる規範が問題となった。ここから意識されるのは、個々人のふるまいを交換可能な利益の最大化にのみ振り向けるのでなく、「コミュニティの中にある自分」として自身に制約を課すあり方である。

”共有地の悲劇”を真に避けるための、経験価値と交換価値を両立させるヒントは、ここにあるのではないか。単なる共有ではなく”共同体の参加者”同士による共有と交換が、コミュニティとコミュニケーションに重きを置いた制度設計が、可能であろう。国家間、企業間、また個人間においても、共同体の中にある主体として位置づけられながら交換経済に参加していく意識と制度。昨今、消費者市場のなかで”コミュニティ”に光が当てられているのも、一定程度はこうした文脈の上であるはずだ。

いかなる経験価値においても、主観的経験を尊びながらまた公共を意識し、同時に交換可能な枠組みの中で良価値を波及させていくような発想の転換とバランス感覚が求められている。

関連記事


頂いたサポートは、今後紹介する本の購入代金と、記事作成のやる気のガソリンとして使わせていただきます。