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教科書の一節を書き換えるほどの興味深いことがらはごく身近にあるはず:気づけるかどうかの瀬戸際とは


はじめに

 生命を対象にとぎれとぎれとはいえしごとにしてきた。じつに興味深く奥が深い。でもその深みに迷いこんでしまうと混沌のせかいが待っている。まさにダンジョンの迷宮のなかをさまようかのよう。

もと来た道をひきかえすか、このまますすんでいいものだろうか。エルフのフリーレンとはちがい、のこされた時間にかぎりがある。彼女ではないけれど旅してきた道をふたたびたどりめぐるのもよさそう。あらたな境地へ到れるか。

きょうはそんな話。

数十年にわたって

 生命を知るうえでおそらくいちばんおもしろい時代に生まれたなあと思う。これには感謝。病に罹り手のほどこしようなくお祈りするしかない時代から、特効薬が発明されのちの人口増加のカーブを変えるほどの科学の果実を享受できる世へとつながった。その一方でサイエンスの恩恵よりその弊害にもさらされた。

生命のことわりの基本の多くが前世紀のなかごろからつぎつぎに解明されてきた。道なかばだがそれらを分析する手法、たとえば遺伝子の解析技術のひとつ、PCR法など昨今の状況がなければ世界中のヒトビトにこれほど知られる診断法になりえなかっただろう。

これからのちに

 それでもおごってはならない。人類や地球の諸問題はこれほど生命の科学が発達したかのようでもなんらその多くは解決の糸口や方向性すら見いだせないものすらある。もちろん生命のみならず環境やその他の分野でもおなじかもしれない。

そんななか素朴な観察やふと湧いた興味から科学の根本、たとえば教科書にごくふつうに書かれていることがらですら書き換える発想や発見は、すぐ身近に隠れているはず。ただしそれはそんじょそこらの発想では通り過ぎたり、注意をひかないまま見えてこなかったり。

独特の視点

 やはりちょっと変っているなと思えるぐらいでちょうどいい。それぐらい独特な発想やそぼくな疑問、目のつけどころのちがいでそれらの糸口に気づけると思う。くわえてそれを継続してながめつづけられるかどうか、糸をたぐりつづける忍耐力。たいていのヒトはそれがあたまのかたすみにあっても興味がながつづきせず、ほかへ移ってしまう。

大きな研究室のあの方のテーマが変わったとか、流行のキーワードの分野へむかわれたとか聞く。ところが多くのブレークスルーはそうした流行の枝葉の先よりももっとちがうところにありそう。そこは大きく育つとはかぎらない。

たとえば、多くのヒトビトがその木の幹や花を見ているときに、そことはちがう木にとまる鳥や虫たちがどこへむかうとか、画家がその木をふくめてどんな構図で描こうとしているかとか、そんなところに目がむいていて、そこからあらたな森へ興味がむかうというところからはじまる。

おわりに

 教科書を書き換える、あらたな章(いやひと段落や1行)を書きくわえるほどでもインパクトのある研究。そんなものは10年にひとたびあるかないか。そうでないと教科書の厚さはかぎられている。そのぶんそれほどでない分野はすみのほうや欄外、あるいは除外されていく。

こうしてもはやわたしが学生のころに使った中・高校生のころの生物の教科書の内容がずいぶん書き改められている。


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