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時間の制約のあるなかで学術論文を読みこなしていくには


はじめに

 卒論生になると多くの研究室で教授から学生までみんなでまなび合う論文講読がおこなわれる。場合によっては下の学年の授業などでも類似のものはおこなわれるが、多くは卒論に関連する外国語(おもに英語)の新しい論文をじっくり正確に読みこなす力をやしなう。もちろん卒業(修了)のために必須。のりこえていかねばならない。

なれない学生たちにとりけっこう時間をとられる作業だろう。これに慣れてくると、その学問領域の現状が見えはじめ、新著論文の多くが川原の石のつみかさねのごとき存在と判明する。そしてごくたまに大きな石がころがってきてあらたな足場となる。そうした世界をつかめるころには、そっけないほど時間をかけずにポイントをつかめるようになる。

きょうはそんな話。

論文講読の時間

 4年生への進級間近の講座配属のきまったばかりのわたしは、その講座の先輩からある話を聞かされた。担当の教授のゼミは以前、学生ひとりひとりにわたした英文の論文をすべて単語ひとつひとつふくめて原文以外の辞書や訳したノートすらもちこみ禁止で内容を発表するようにいわれていたとのこと。

最近はそうでもなくなったが…とつけたされてすこしだけほっとしたが、それでも情け容赦なく「はい、やり直し。」が待っているとのこと。

そのことばをかけられると翌週もまた1から勉強しなおして、講座の先生たちや院生、ほかの仲間からの質問にこたえていかねばならない。つまりは内容を把握し理解してある程度質疑応答を想定できるまでになっていないと
こなせない。専門用語ひとつでも質問されれば内容をまえもって調べておいて説明せねばならない。

配られた論文

 その論文だけでは書かれた内容の理解はすすむものではない。慣れないうちは引用文献には基本的にすべて目を通していかねばならない。当時はいまのようにネットで論文が手にはいる時代ではなかった。

何か所かに分散しているキャンパスを歩きまわり、図書館の書庫にいり浸り、それでもたらないときには司書さんや技官などにたのんで文献のコピーを依頼する。これらの作業をぜんぶやりきるには慣れていないとやはりひと月まえからとりかからないと終わらないのがふつう。

もちろん原文の1言1句の解釈が正確でないとちんぷんかんぷんになりがち。英語がおぼつかないと専門分野の用語や実験操作の理解すらままならない4年生になりたての身には、「すでに英語はそれなりに学習してきているよね、君は。」と先生方は(口にはお出しにならないが)その姿勢でいらっしゃる。お墨つきがもらえるまでプレッシャーに耐えつつおぼつかないところを確実にする1年だった。しっかりはっきりと鍛えられた。

論文を読むには

 そんなたどたどしさも機会をかさねるにつれて慣れにかわる。どの作業に時間がかかるのか、もっと効率よくすすめるにはどうしたらよいか要領を得ていく。基本的に最初のうちはノート1冊にその論文の本文のコピーを各段落ごとに切り貼りしてわからないところだけを精密に訳し、それ以外のセンテンスは要点を個条書きに。

これだけでずいぶん省力化できた。引用文献の骨子もそれらのすきまに書いておく。こうしたノートの文章はお手本として卒論をまとめるにも役立った。さらに大学院にすすむころにはさらに時間の節約のために、その論文のアブストラクト(要旨)、図表の理解に重きをおいた。つまりはこれらを説明の中心にすえればよいと気づいた。

すでにひとつの論文で、辞書を1度か2度ひく程度、そののちには辞書はつかわなくなり、むしろ学術用語集や専門の事典類、英英辞書などを手にとるように。論文に目をとおすのにだんだんと手をわずらわさなくなった。

おわりに

 こうして要領が身についてくる(修士のころ)と、毎週のように講座にとどく新しい10数種ほどの学術雑誌(50センチほどほどあった)のうち表題のみすべてみていき、そのうち目をひくものだけ要旨に目をとおし、興味わくセンテンスに関する図表のみ見ていくというもっとも効率のいい方法をだれから教わるのでもなくやりはじめた。

こうした論文読みを日課にし、関連する学会への参加や発表、論文執筆でようやく雑多な業務をかかえるなかで最新の情報だけは遅れずに身につけられた。同時に過去にもさかのぼっていく。

やっぱり大学の4年間、とくに最終学年の1年は濃密だし、この論文講読の存在だけでもそれなりに意義があると感じる。


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