ヒトを被写体にすると撮った写真にはそのヒトとの関係性があらわれてくる
はじめに
これまでさまざまなヒトの写真を撮った。個人情報の際たるものなので、かならず了承をいただいての撮影。見ずしらずのヒトを撮るなんてない。
そうなると了承をもらえる可能性のあるみぢかなヒトが対象となる。すると撮した写真にはその方とのみずからの関係性がありのままに。
きょうはそんなお話。
学生のころ
写真に熱中したころ。学生時代のわたしはカメラをいつも手にして身のまわりで対象をさがした。おなじ学科のメンバーを撮影したものが多い。授業時間以外のくつろいだ時間をつかう。
ふだんからつるんでいる同性の友人たちのようすが中心。たまに休み時間に教室で雑誌をパラパラめくっている同級生。時間をもてあましていたらモデルをお願いしてみることも。気ごころのしれたクラスのメンバーだからできること。じつに気が楽だった。相手も練習してるんだねと理解をしめしてくれた。
たいていそのお礼は焼きまししたプリント。当時はフィルムカメラだったので、1週間後ぐらいに仕上がる。それをわたすとよろこんでもらえる。こちらはネガフィルムが残ればいい。こうすればもっといい写真になったとか、つぎはこうしようとか、まだいい写真が撮れそうだと思いつつわたす。そんな機会になっていた。
被写体には
そうした写真には、ふだんからのコミュニュケーションのちがいがあらわれる。ふだんから何でもはなしている相手では、話しているままの表情が写真のなかにそのままいる。
あまりつっこんだ話をしていないヒトでは、やはりどこかカメラをみつめる目がちがう。それはそれでいいのかもしれない。どちらもありのまま。そのときの空気感があるようだ。
それとまわりのようす。当時は余裕のある学生はそんなにいなかった。いずれもお金をなるべくかけないで楽しいことをしようとなにがしかくふうしていた気がする。かざらないふだんの生活がそれとなく見えるし、ありのままなのをカメラをとおして許してもらえている。きごころが知れて信頼してくれてるんだなと思う。
こんなことも
ちょうどいまごろの季節。帰省にむかう道の途中、同時プリントをなじみの店で受けとった。当時は現像と同じタイミングでひととおりプリントすれば、コンパクトなアルバムを1冊サービスでもらえた。実家にむかう列車のなかで撮った写真を1枚ずつアルバムに整理した。のちにわたす写真もふくめて。
そのまま実家までたずさえて正月をすごす。ふだんの生活を両親にしめそうとたくさん撮ったアルバムの写真を見せつつ近況を話した。なかにはふだんいつもいっしょの3人組の女子学生たちの写真。ひょんなことから3人まとめて撮影したもの。
ひとりずつ紹介する。すると母がこういった。「ふ~ん、じゃあこの子といちばん仲がいいんだ。」なぜか図星。たくさんのメンバーがいるクラスの写真を何枚も見せたにもかかわらず、いいあてている。なんという感のよさ。
おわりに
写真を撮る相手との距離感が写真のなかにふとあらわれる。まさにシャッターを押した瞬間の相手とのコミュニケーションの濃淡のレベルがそこにあらわれる。
いまでもまだじゅうぶんにそのシャッターチャンスをとらえきれないまま。技術もそんなに進歩していない。それでもなにがしか、ここかも、そうだこのときとぐうぜんにしろ気づけるときも。
その意味で写真はうそをつけない。「真実を写す」の文字どおり。
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