ことの大小にかかわらずメールでのやりとりは慎重におこないたい たやすくない歩みより
はじめに
さまざまなヒトといろいろなことを協力しあっておこなう。とうぜん面とむかい相手のかたの表情を確認しつつお話するのがなにより。その機会が増すほどお相手とのやりとりもスムーズに。
このあたりまえのことが昨今の状況下ではやりにくい。さまざまな制約がありネットやメールでのやりとりになりがち。そこに落とし穴が。思わぬ展開になりかねない。当事者でない立場で気づいたことから。
対面ツールでも
このところPCやスマホをつうじて、相手のかたとやりとりする機会が多い。ふだんからなじみのヒトとごく単純なやりとりならばなんでもない。ところがつたえるべき内容がふくざつになるとそうともかぎらない。要点をしぼりだいじなところを箇条がきにするなど明確にしないと意外とつたわっていない。
相手のかたに復唱してもらうのがいちばん。たとえばメールアドレスや電話番号をやむなく口頭でつたえるときなどつねにそうする。声でなくテキストの文字でつたえるのがまだまし。よりかくじつ。
こんな物理的な情報のやりとりならばそうすればいいが、たとえばなやみの相談ならばそうもいかない。相手の表情をみつつやりとりできればそれが理想。事情があって相手の表情が動画からうかがい知ることができないときは、なやみの相談を受けるのはむずかしい。
いまあるのかたしかめていないが、ラジオなどの悩み相談の番組があった。聞き手はプロだなあと感心する。悩む相手のかたの話をよく聞き、論点やこころのからまりをはっきりさせる。そうしてこころをほぐしつつ、どうじに相談者のあたまのなかを整理していく。みずからの心根からでてくる結論へとみちびく。もう迷わないし、じぶんで解決できる。つまりは道あんないの役。
メールはなおさらむずかしい
これがもしもメールならば。この1,2年ほど、第三者的立場で、さまざまなトラブルを目にした。年代も立場もいろいろ。それぞれのいさかいの端緒のところにたまたま接していたからこそ、こうして文章にできる。いずれもおたがいのきもちのずれのはじまりはネット経由。とくに一方のほうに極端な誤解があったわけではないのは明確。
いずれもささいな言葉の解釈のちがいからはじまった。それをかたわらで最初から接していたので経緯を知っており、なおさら残念。もちろんそのささいな段階でちょっとだけフォローした。だがプラスにはならなかった。すでに延焼状態。なかなか火を消せない。
いまもそのまま。なかなかおたがいにそこまでもどれるきもちの余裕はいまのところみつけられない。あ~あ。おたがいに知人だけにこちらから解決の糸口を見つけようとしても、相手のかたがいらっしゃる。
あまりにかたよったことはわたしとてやりにくい。うっかりしたことはできない。おたがいにかんちがいしやすい状態。火にあぶらをそそぎかねない。たがいに妥協しあい解決していただくのがいちばん。やっぱり時間かなぁ。それしかない。
メールはこわい。誤解を生んだことばのまま残っていく。「こういったじゃないか。」のままで残ったまま。「その解釈がちがっているんだけど。」とこちらからはつたえにくい。一方のカタをもって…といわれかねない。はたからみてるともうおたがいに意地のはりあいに見える。
おわりに
ヒトとヒト。いっしょに協力しあおうとするとコミュニケーションはなによりもたいせつ。「いっしょにやろうと手をむすんだ仲じゃないか。そこまで歩みよろうよ。」とだけつたえたいけれど、それはいまじゃないことはたしか。
メールでことばのニュアンスをつたえるのはむずかしい。ことばの解釈は百人百様。本音は会って相手の表情をみながら話さないと。
だから「首脳会談」が必要なんだね、きっと。
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