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情報の作法。

幼少期からデバイスに触れ、物心ついた時から大量の情報に晒されて育ってきた人間は、大きく二つに大別されるだろう。
一つは情報を排除したいと思う人、一つは気持ちの良い情報だけに触れていたいと望む人だ。

そのどちらも統治権力側には大歓迎で、情報を捨て世捨て人を標榜してくれた方が統治コストは下がる。
たとえば、ある日不都合なルールが施行されても世捨て人は気が付かず、実際にその効力が身に及んだ時は手遅れで、いざ反抗を示そうにも、そもそもその反抗自体が法的に反逆罪や公務執行妨害に当たるとして逮捕、勾留の正当性を与えることになるだろうからだ。

自身に気持ちが良いと感じられる情報に浸かりたい人間もまた同様で、気が付けばいつの間にかゲームの世界に放り込まれたような感覚で戦地の前線に参加しているかもしれない。戦う相手の顔も知らないままに。

情報は情報戦という言葉があるように、距離の取り方や扱い方、選び方などが重要な、ある種の戦いなのである。
情報の質は違えど、それは太古から我々の生活を左右してきた一つの「生きる作法」である。

その情報を、あらゆる分野を跨ぐ世界そのものに関わるものと捉え、編集というダイナミックな作法に落とし込んで語るのが松岡正剛だが、ここでは割愛しておく。

情報の取り扱いを生きる作法として述べてきたが、ここからはまとめて「情報の作法」と綴ることとする。

さて、その「情報の作法」において、日本人の大半は作法が身に付いていない情報弱者である。この場合、強者に当たるのは統治権力だが、一般市民が弱者たる所以は情報戦における敗者であるからだ。作法が身に付いていないから、いとも簡単に負けてしまう。更には実際に痛みを伴わないかぎり自身が敗者、弱者であるという認識に至らないのがまた怖いところでもある。

統治権力もまた権力の増大につれて入子状になっており、小さく中心部分にいる我々一般市民はいわば何重もの権力の壁に囲まれているような状態だ。
安倍政権以降の日本は何かのタガが外れたような状態がずっと続いているが、それとて日本をすっぽりと包み込む米国という統治権力の掌の上でのことなのだ。米国には米国の、今ではディープステイトと一括されているような権力構造があるのだろう。


人類社会の叡智、科学技術の粋は軍事研究にこそ現れる。無論のこと、それは全人類の未来へ平和的に利用されることを目的とはしない。まず自国内での統治に国民監視機能として利用され、他国の監視へと拡張し、監視から殺害まで範疇に入れた生殺与奪の権の取得として極上の世界統治技術にまで練り上げるのが至上目的である。

そうした意味で、世界で最も進んだ科学技術を保有するのはやはり米国だろう。
しかし、そんな米国一強の覇権体制も翳りが見えて久しい。最近ではその影はどんどんと濃くなるばかりである。
無論のこと、当の米国は自らの生き残りについて熟知し熟慮しているに違いない。

人工知能など最新の科学技術はたとえそれが不都合な真実だとしても、それを冷静に突きつけるだろう。
それを受けた上でどうするのか。統治権力に携わる個々の能力と肝っ玉が試されるところだ。
もちろん、日本だって技術力が低いわけではないが、何を知っても何もできない組織的劣等性がせっかくの未来の予見を台無しにする。

余談だが、私はそれがよく分かったために、今後は政治社会とは距離を取りチェック頻度を低くしようと考えている。まず政治、行政には期待できないうえに、一般市民はたとえ戦争になっても、この社会の構造や根本に目を向けることは殆ど無いからだ。
これまで一縷の望みをかけてきただけに、今は断言できる。戦争になれば「辛いね」と励まし合いながら頑張り、平和になればただ馬鹿になるだけの、マッカーサーが行ったところの”12歳児”から日本人は何も変わってなどいないのだ。

「日本人に国家観を持つことは不可能だ。」それが私の答えである。

私は研究者ではなく、たかが一表現者だ。無駄なことは考えないし、尽力もしない。
日本人に近代社会の前提についてリテラシーを植え付けるなぞできるわけがない。永遠に個を取り巻く環境に翻弄されながら、ただひたすらに順応のみを繰り返していけばいい。たとえそれが破滅の道を表していたとしても、破滅しても気が付かないのが日本人というものだ。忍耐は飛び抜けていても想像力がない。

さて、そういうわけなので、今回でこうした内容は最後になると心に決め、我が憤懣の逸気を綴り切ることとする。

日本を語るには二つの目線がある。
戦前以前なら歴史へ。戦後は米国の動向だ。戦後の日本は米国を支えるために米国に作られた。
戦後の日本が部分的にどんなに誉められたことをしようが貶されることをしようが、全ては米国ありきの話なのだ。だから、周辺国も皆、日本を透かして米国しか見ていない。我が母国は戦後、透明になったのだ。そして我々国民もまた、国際社会における“日本人”としては存在しないものとして見られている。
北朝鮮がミサイル発射しやがったと騒ぐのは、ただの国内統治のためのオチャラケで、誰も日本なぞ見ていないし発言を聞いてもいない。

今回は最後の政治社会トピックだ。
頭をフルに回転させて想像力を働かせよう。

米国は全てを知っている。いや、言い過ぎか。おそらくロシアのウクライナ侵攻についてはそこまでパーセンテージを高く設定していなかったろう。ロシア云々は我々には大きいが、おそらく米国の100年計画みたいなものがあれば、その中では大した変更点にはならなかったはずだ。
それとは別に、米国の焦りは日本への対応で感じることができる。ここのところの、あからさまな日本の主権を無視した属国扱いはその象徴だ。

前回にも書いたが、日本は米国の軍事関連倉庫兼ATMだ。無論、原発も含まれる。武器の購入と輸出ができるようになり日本人は大喜びだが、人口減少と下降する国力に反比例して軍事予算は今後も上がり続けるだろう。米国の軍需産業を買い支え在庫を引き取り管理するためであり、そのほか軍事予算どころかあらゆる税金やカネの流れそのものが米国に一本化されていくだろう。
米国が日本の中小零細を潰し大企業に一本化し、あらゆる手で国民統治を厳密化させたいのは、我々一人一人から一滴残らず資産を絞り切りたいと望むからだ。それだけ、米国単独の未来は暗いのだ。

日本の利用どころか、絞り切っても果たして米国はこのままの形で存続しうるかどうか。私には分からないが、もはや軍産、医産複合体とCIAのような何が価値観かわからないアメリカファースト主義で出来上がった制御不可能なモンスターを維持していくには、一言でいえば超莫大なコストがかかる。そのコストを維持するには莫大な量の余剰が必要で、そのためには莫大な幅の格差が要求される。
米国内格差はあまりに厳しいが、それでも足りないのだろう。

その格差の補充に日本がついに全面的に当てがわれるのだ。日本は今後、超重税社会に向かっていくだろう。既に新コロ騒ぎで見たように、医療品の質は下がり米国製薬会社を買い支えるATM化が常態化するだろう。しかし医者は自己否定できないためにそれを認めないので、大きな問題として取り上げられることはないだろう。農業分野も壊滅するだろう。遺伝子組み換えに加え化学物質や環境ホルモンで我々の身体は汚染され出生率は上がらない。様々な化学物質による不健康と病院と薬のループだ。原発の維持費も電気代に転嫁される。生きるコストが高すぎてとてもではないが育てられない。個人の幸せは遠く、家庭の幸せは夢のまた夢。

米国の崩壊はあるだろうか。
州の自治が高いことが崩壊の様相を想像させる。国家としてまとまれないほど屋台骨が傾けば、米国は米国以前に戻るかもしれない。
そうなった時、中国は台湾を無血開城させ、もしかしたら日本も無くなるかもしれない。その頃には日本人の半分くらいは外国人になっていて、一部の極右政党とその支持者という形でしかいわゆる“日本人”は残っていないのではないだろうか。

既にそうなったことを想定した上で、米国は中国と握ってロシアを今のうちに限りなく弱体化させておくことにしたのではないだろうか。
米国は日本を倉庫兼ATMとして、有事には原発を中心とした巨大な核爆弾として使うために中国を牽制しつつ、中国との拮抗を保った関係で自身の保身を企てているように私は思う。
もし米国が空中分解すれば、日本は間違いなく台湾、韓国と共に無血開城させられる運命にあると言える。さすがに中国と戦う阿保もそこに付いていく馬鹿も相当少ないだろう。

そうなると、向こう100年で想像すると、次なる覇権はBRICSから見ればインドと中国だろう。

私はもし代替エネルギーの発達などで石油の価値が下落するようなことがあれば、中東はまた長い戦争状態になると思う。アフリカは変わらず資源の搾取と民族紛争の武器在庫調整場としての機能を押し付けられ続けるだろう。中東戦争も在庫処分にはもってこいだ。
ヨーロッパはヨーロッパで仲違いしない限りあまり変わらないと思う。良くもなければ悪くもない。意識が高くて感情的な社会と文化のままだろう。南米もあまり変わらなそうだ。政権交代も深刻な問題もそりゃあるだろうけど、100年単位で見ればそこまでの上下はないように思う。ロシアは回復に時間がかかる。

それらを利用して台頭するのがインドと中国だ。
米国はそれらの間で嫌な動きをしながら、再び覇権を取りに行くのを虎視眈々と狙っている、という構図がざっくりと私の生きているうちの人類社会であるように思う。

日本は超重税社会に加え、南海トラフ、首都直下の大地震、富士山噴火を経験し、原発事故をいくつも抱え、2度と立ち直れず廃れた移民国家としてその生涯を閉じるだろう。
列島全体が汚染され破滅しても、それでもきっと働ける人と場所はあるのだろう。米国のために。


そんな中で、よく統治権力が脳波をコントロールして人々を好きに操るみたいな話があるが、私は別にいきなり陰謀論だと拒否感を爆発させなくても、冷静に見れば技術的には可能だと思う。べつに驚かない。
国家が国民を監視しまくりたいのも、要するに統治コストを下げたい話なので当たり前だろう。

要は全部いいように動かせたら他者は要らなくなる。たしかにAIやロボット技術が革新的に進歩すれば、おそらく厳密な人口調整を始めるだろう。
しかし、カネ持ちや権力者というのは、それらを持たざる者との対比によって成り立たせているのだから、そんな馬鹿げたことをやっても単純に面白くないのではないか。彼らはすぐに退屈してしまうのだ。

彼らはいつも高みの見物で人々が殺し合うのを見たいだけなのだから、ある程度、反発力があるものを完膚なきまでに踏み潰して悦に入るのがお気に入りだろう。

権力者というのは、最も原資的な形では「自分のことを他人にさせること」を行う人間だ。
これは「生きるコストを肩代わりさせている」と言い換えることができる。

それが集団になると、「生きるコストの分散」と言うことができ、それは即ち「制度のよる負担免除」のことを指す。つまり「自由」だ。
権力者の「自由」を多大な他者が支えているわけだが、それらが必ずしも人でなければならない理由はない。

とにかくそんな未来に、我々はもう居ないのだ。

ささやかな抵抗として、日々、正しいと思えることを行ない、いま戦う人を選挙で応援するだけだ。
時折り、数少ない良心的な情報発信のプラットフォームにアクセスするだけで、十分にこの国、この民族の終焉の道筋は追っていくことができるだろう。

「日本人」とは一体いつから始まったと言えるだろうか。倭と呼ばれた頃と考えればほんの1000年ちょっと。国家になってからは僅かに150年ほどか。
人類史から見れば、誠に諸行無常の一瞬の出来事であったかと思う。

『社会を自覚すること』これがいかに大事なことであるかと、よくよく考えさせられる一事である。
自然で生きていれば、周囲の環境を把握し常に注意深く観察するのは当たり前のことなのに、なぜだろう。

きっと日本人は「自身を包含する他者の塊」に無頓着になってしまったのだ。せっかく得られた法も人権も、思いやりの相互扶助で互恵的に生きてきた人々が理解するには歴史、文化、価値観が違いすぎたのだろうか。


いずれにせよ、ここに一度、諦めの筆を置くこととする。

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