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2秒で分かる‼️「現代アート」🎨

さて、せっかくアートやっているんだし。ということで、「分かりにくい」と言われる現代アートについて、誰よりも分かりやすく説明してみようと思う。

故にこれまでの内容では最も短い内容になるし、少々乱暴な言い切りも多々あるだろうが、そこは”一人の知性を持った大人”として思考を展開してほしい。

まず、「アート」の説明から。
そもそも外来語でカタカナになっているように、アートは日本のものではない。
耳障りが良いように言えば”全人類”のものだが、それはあくまでコマーシャルな建前。

はい。はっきり言えば白人のカネ持ちのもの。
時には法外な価格で一般人を驚かせるアートマーケットなるものは、彼らの差別と格差が土台になっている。

差別と格差が明らかだからこそ、全人類のものという歯の浮くようなことが平気で言えるのが白人のカネ持ちというもの。

彼らのピラミッドヒエラルキーの中で下層になってくると、日本人のカネ持ちが出てくる。
だから、「結局はカネ持ちのもんでしょう」と言えばそれも間違いではないが、やはり価値基準のトップを握っているのは白人だ。

アートにおいて白人のカネ持ちが何をするかというと、評価し、価値を作り、信用の土台を積み上げていくことで価格に転嫁させている。

例としてはオークションがその仕組みとして分かりやすいだろう。オークションで「素晴らしい作品」というのは、「著名なカネ持ちがいくらで落札し所有していたか」で決まるのだ。

で、日本人にとってアートが分かりにくいと言われる根本には、教育の中でアートにまつわる言葉が無駄に氾濫しているというのが理由の一つだと思う。

従来の、文化、美術、藝術、藝術家、美術作家、作家、表現、表現者に加え、アート、現代アート、アーティスト、現代美術作家だ。そりゃ混乱するのも無理はない。

しかも、”美”という抽象的なものへの理解があってこそと思い込まされることで、余計なにやら近づきづらく自身の感覚を表明しづらいものになってしまっている。

その、”近づきづらさ”をなんとか解消しようとやたらとレベルを下げたのがまた失敗の上塗りだった。
今度はイラストやヘタウマや分かりやすい具象が乱立するただのカオスと化してしまったのだ。

ザックリとした言葉の棲み分けは、まず文化とは「民族的に伝統的なもの」、藝術とは基本的に近世以前の「なんか凄いもの」、美術とは「モノ作り全般」、表現とは「やむにやまれぬ訴え」、それらに”家”が付くことでそれを行う人間を表し、作家は小説家を筆頭に「作る人全般」だ。

次に、アートは「オシャレな雰囲気を出す便利な言葉」、アーティストは日本では一般的に「J-POP 歌手や有名人」、現代アート及び現代美術は「作り手が”現代”を規定し自らの行いこそが現代アートであり己こそが時代の最先端であるという表明」である。それに付随する”作家”はそれを行う者というだけのことだ。

そう、現代アートとは何であれ、「現代ってのはこうで、だから私はこれを行なっているのであり、私こそがまさに、“現代”の”アーティスト”なのだ!」という表明なのだ。

その理屈が、発言力のあるギャラリストや批評家に認められれば、晴れて作者は「コンテンポラリーアーティスト=現代美術作家」になれるというわけ。

なので、現代アート、分からない!と思ったら、まず、その作者が「”現代”をどう定義しているか」を説明文などから読み取って、その定義と行いを理解しようと試みて、「何が評価されたのか」を読み解くといい。

とくに美術館の現代アートの展覧会は、上記のセオリーで絶対に分かるように作られている。
なぜなら、白人のカネ持ちのプライドを担保するためだ。

彼らは「分からない」や「ミスリード」の恥を最も忌避する。

現在では一般化した、ロココ、バロック、印象派という区分でさえ、それらは当時の最先端では揶揄されたレッテルだったのだ。

そのレッテルをこそ付けたのは当時のわけ知り顔をした白人のカネ持ちで、そのカネ持ち達の中でのヒエラルキー争いと共に、前の時代を否定し新しいものを受容することで、アートの歴史は積み重ねられてきた。

つまり、保守的なカネ持ちがモネ達の絵を観て、「印象派!プップー!何このボヤボヤした絵!」とかいって笑っていたら、新進気鋭の若いカネ持ちが「これこそ今の新時代に相応しい、新しい藝術だ!」と持て囃し、従来のカネ持ちは辱められて”古い価値観の人達”として押しのけられ、発言力を弱められてしまったわけだ。

もちろん、明日は我が身と思えばカネ持ち達も学習をする。

現代になるにつれ、いつの間にか批評家達の鋭い舌鋒は鳴りを顰め、出てくるセンセーショナルな行いには全て賛美が贈られるようになった。

評価と価値にはきちんと理由が付けられ、それを「理解する」ことで彼らの面子は保たれる。その”ビビり”が担保となって評価の確実性が構築されるからこそマーケットが形成できるわけだ。

以上が私による現代美術の説明だ。
専門的な単語も使わず細かい歴史も挿入しなかったが、如何だったろう?
現在の読み手に合わせてスピード感を大事にしたつもりだ。

もしこれでは「浅い」と思う人は専門書を読めばよろしい。E・Hゴンブリッチの「美術の物語」や小山登美夫の「現代アートビジネス」、辛美沙の「アートインダストリー」が分かりやすい。批評家もギャラリストもたくさん本を出しているし、美術館の書籍コーナーには常に最新の美術書が並んでいる。


本来は、たとえば日本人による現代美術なら、同じく現代を生きる日本人にこそ、共感を呼び、評価され、価値となり、信用の土台が積み上げられていくことでJapanese contemporary art market が形成されていくべきだが、おそらくそれは永遠にできないだろう。

理由は明白で、日本の現代アートの価値基準は欧米の帰国子女や長期在住経験者によって作られるため、あくまで欧米の価値観を土台とした”日本ぽさ”でしかなく、そもそも日本語的価値観を主体とした日本独自のものになるわけがないのだ。

そりゃ彼ら以外の多数を占める一般市民に共感を得るのは難しいだろう。そんなバカスカ海外に留学なぞ誰もが行けるわけではないし、欧米でバックパッカーでもない長期滞在ができるわけもない。分かりにくいと言われ敬遠されるのも当たり前だ。

しかし、それでも、やはり美術鑑賞が知的な行いには違いないのだから、次回もし美術館に行ったなら、まず「作者の”現代”の定義と行いの照応」を観て、「何が評価されたのか」を読み取ってみたら楽しくなるかもしれない。

また、ギャラリーに思い切って入ってみたなら、まだ未規定の、現在を共に生きる一人の人間による「やむにやまれぬ行い」としての表現に出会えるかもしれない。

無論、ギャラリーは買わずに観るだけでも無料で入り放題だ。

世に「ギャラリー巡り」なる「楽しみ」があるのは、そうしたわけだ。
ネットで「現代アート ギャラリー」で検索すればすぐに有名なオススメどころを列挙したまとめサイトに辿り着けるだろう。

美術館で厳然たる評価を有料で楽しむのもいいが、無料で”今”を共感しに行くのもオツではないか。

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