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小夜(さよ)の中山


「年たけて又こゆべしと思ひきや命なりけりさやの中山」(『山家集』)。
西行の最も有名な歌である。西行六九歳、文治二年(1186年)、東大寺再建の頼みを受けて、みちのく藤原氏へと勧進の旅の途中であった。

前年には栄華を誇った平家が滅亡した。かつて武人であった自身の命への思いを歌った。小夜の中山は掛川の宿から金谷の宿へと山々の連なる峠越えで、かつては難所として知られていた。西行はみちのくを、二七歳の時に旅している。それはおよそ二00年前の、「能因法師」の旅への追体験であった。

能因法師は漂泊の歌人と言われ、風雅探訪の旅を重ね、歌を詠んだ。そして「数寄(すき)」を極め、「和歌」を「歌道」として確立した。西行は能因の歩みをたどったのだった。そして四〇余年の後、年老いて再び小夜の中山を旅するとは思いもしなかった、まさに命あればこそ、と歌ったのだった。



西行伝聞

西行法師座像
西行法師座像(吉野水分神社像)


 西行は元永元年(1118年)は奥州藤原氏系列の佐藤を名乗る武人の家に生まれた。二十歳の頃には北面の武士として、鳥羽上皇の側近として仕えていた。歌の才に恵まれ早くから評判の人物だった。「西行は生得の歌人、不可説の上手なり」と上皇からも愛されていた。

 しかし二三歳の時、突然出家する。前日まで親しく語り合っていた親友が、突然亡くなり、「無常の念」にかられ、「もの憂きこの世」を捨てた、と語られるが、真の理由は高貴な女性への失恋だった。その女性は「待賢門院璋子」といわれ、上皇の後宮に入り、後の崇徳天皇や後白河の母となった女人で、西行より一七歳年上であった。恋慕する西行と院は一度だけ深く愛し合う。しかし一度の逢瀬で「これっきり」と告げられた。西行は詠う。


「おもかげの忘らるまじき別れかな名残を人の月にとどめて」、あの人の面影を月に留めておきたい、でも忘れられない、と。出家の後も恋への未練は絶えることがなかった。



歌僧


 西行には奇妙な伝聞がある。高野山で友人と月を眺めた後、広い野に出て、骨を拾い積み重ねて「人の姿に似ども」と人間を造った。しかし「心」が入らなかったと、後に編纂された『選集抄』に伝えられる(髙橋英夫『西行』)。

この奇妙な説話は、無論後世の脚色ではあるが、西行という「歌僧」(かそう)の「うた」で人をも造ってしまう、との説話である。古来日本は恋の駆け引きのみならず、政治的にも社会的にも個人の願いにも、「うた」がその最も重要な位置を占めていた。さらに歌は魔界をも治める呪力を持つ、と考えられていた。


 同時代に「文覚(もんがく)」(『ココガネ45号』)がいた。彼もまた武人であったが、誤って横恋慕した女人を殺し、都を逃れ、死線を超える修行の後僧となった。彼は「数寄を立ててここかしこにうそぶき歩く」西行を憎んでおり、いつかあったなら「頭を打ちわるべし」と考えていた。ある日、西行が文覚を訪ねた。はらはらする周囲をよそに語り明かした文覚は西行のファンとなった、と伝えられる。歌僧西行はそういう人物であった。



西行の歌


西行歌碑(小夜の中山)



 小林秀雄は語る。「この人の歌の新しさは人間の新しさから直かに来るのであり」「放胆に自在に、平凡な言葉も陳腐な語法も平気で馳駆(ちく)した」(『西行』)。西行以前「歌」は古今集などの古歌を下歌とし、花鳥風月の調べに人の「あわれ」を歌い込んだ。


しかし西行は違った。「あはれあはれ」「ましてまして」など心の思いを、「平凡な言葉」も「陳腐な語法」も臆することなく、一気に、ストレートに歌った。彼は歌に、心の迸る思いを性急に持ち込んだ。雪月花のあはれが彼を追いかけた。


 西行の歌は2300を超えて伝えられる。その中で自賛歌の第一に次の歌を挙げている。
「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思いかな」
 西行は桜を愛した。死ぬときは満開の桜の下で、更にはお釈迦様入滅と同じ日に死にたい、と歌った。


「願わくば花のもとにて春死なむその如月(きさらぎ)の望月の頃」
 まさにその日、建久元年(1190年)2月16日(新暦の3月半過ぎ)、西行は旅立った。七二歳であった。八〇〇年余昔のその日、桜が満開であったかは知る由もない。


(地域情報誌cocogane 2022年9月号掲載)

[関連リンク]
地域情報誌cocogane(毎月25日発行、NPO法人クロスメディアしまだ発行)

小夜の中山(静岡県掛川市佐夜鹿)

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