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終わりの始まり

私たち家族は3人で都内の小さな建売戸建てに住んでいた。
旅行に行ったり、休日のランチはそろって外食したり、映画を見たり。夫への多少の不満はあっても、家族仲は悪くはなかった。
何気ない日常。でも終わりは静かに近づいていた。

実母のうつ病


今からさかのぼること5年前。
父を亡くして地方で一人暮らしをしていた私の実母がうつ病を発症。
 私が中学生くらいの頃から、母はうつ病になっては治り、またぶり返してを繰り返していたので、そんなに驚く事ではなかった。
モラハラ気質だった父に長年連れ添ったせいなのか、我慢強く優しい性格の母は、父を亡くしてからわずか3年で再びうつ病になってしまった。

 ある時、実家に帰ったら、母がご飯もまともに食べられなくなっていた。その様子を見て根っからの長女の気質からか、私は母を一人で放っておけなくなってしまい、そのまま母を東京の我が家に連れて帰ってしばらく夫と私と娘と母で一緒に生活していた時期があった。

 しかし、普段から飲んで帰ってくることが多かった夫は、さらに夜な夜な飲み歩き、深夜に帰ってきてはリビングでダイノジになって大いびきで寝ることを繰り返していました。母はその姿に困惑して心を痛めていた。

「母が気になって眠れないからこんなところで寝ないでちゃんとベッド寝て!」
「早くお風呂に入って!」
「こんな時なんだから、家族なんだから協力してよ!」
毎晩こんな口論を繰り返し
居候の母は対立する私たち夫婦に挟まれて困惑するばかり。。。

 こんな時にも協力してくれない人なんだ。と夫の子供っぽさに呆れたと
共にこんな人と共に年を取っていくの?っていう疑問が頭をもたげ始めたのもこのころ。(思い返せばもっと前からあったんだけど。)一言で言って失望した。
 
 結局、母は数か月で一人暮らしの実家に戻ることになり、我が家は元の娘と3人の平穏を表面上は取り戻していった。私の夫への気持ちは冷めていたのを感じていましたが、休みにはそろって外食に行ったり、買い物に行ったりすることで、その都度、自分の心ごまかして、私たち家族は大丈夫。夫婦なんてこんなもん。と言い聞かせていたのかも。
 
 もしかしたら、はたから見れば、都内の小さいけれど1戸建てに住んで、可愛いひとり娘。給料は高くないけど、正社員で働けてる。恵まれてると思われていたかもしれない。自分自身も多少の不満はあってもそれ以上の物は望むべきじゃないと思っていた。

娘の中学受験

そして今から3年弱前。娘は小学校6年生に。
私はあることに夢中になっていた。
それは、中学受験。
私も夫も地方出身、高校まで公立だったので、手探り状態でしたが
・いわゆる良い学校と言われている中高一貫女子校は高校から募集がない
 らしいよ?
・内申点が理不尽だから、中学時代楽しめないみたいよ。
・反抗期の中学生に勉強させるのはマジ大変すぎるって。だったら小学生の 
 うちに受験したほうがいいよ。

そんなママ友たちの不穏なささやきに流され、我が家も気づいたら中学受験に足を踏み入れることに。4年生の終りから塾に通い始め
6年生の夏を終えて、幸い娘は順応性が高く、塾でもそこそこの成績を上げるようになっていた。

 毎日夜遅くまで塾の授業の後、自習をする娘にお弁当を持たせ、22時くらいに駅前まで車で迎えに行く日々。。。中高一貫校にさえ入ってしまえば、
あとは、一人っ子だし、家族3人でのんびり楽しく暮らしていこう。
私はそう思って疑いもなく、娘のサポートに邁進していた。
可愛い娘のために出来ることは何でもしよう。そう思って疑わなかった。

終わりはすでに近づいていた

 その時は全く気が付きませんでしたが。。。娘に集中しすぎて夫の方を向いていない自覚は少しありましたが、二人の大切な娘ですし、今だけなのだから仕方ないと夫も理解していると思っていました。それに、よく週刊誌やドラマで見るような「母親の狂気」を発動するほどの教育ママではなく、常識の範囲の集中でしたし、塾代だって私の給料から出してた。←それはおかしくね?とは思ってたけど。。。
 
 中学受験するなら多かれ少なかれ、どの家族も通る道だと。そう考えてた。それを乗り越えて、家族は続いていって、やがて娘は大学生・就職・結婚。。。。と人生は続く。と思っていた。
 
 母のことがあって、内心私の夫への気持ちはトーンダウンしていたのは事実ですが、のちに我が家にあんな事態が待っているとはみじんも考えてもいなかった。終わりはすでに始まっていた。


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