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決意を秘めて皿を買う

2日前、お皿を買った。雑貨屋さんでかわいいと思ったものを2枚。

シンプルで何を載せてもサマになるのがうれしくて、カボチャのタルトやハンバーグを作っては載せて悦に入っている。

自分の気に行ったお皿を使うのは気分がいい。一方お皿には、ひとつデメリットというか、避けては通れない問題がある。

すごく長持ちすることだ。

軽い気持ちで買ったものが平気で10年、20年ともつ。そうそう割れるものでもないから、なかなか捨てられない。

使用済みのものはリサイクルショップで買い取ってもらうこともできないし、寄付するにはお金がかかることもあり、買い取りより手順がすこし面倒だ。

うちにはすでに十分な数のお皿があり、別に困っているわけではなかった。モノをあまり増やしたくないスタンスの私は、それでもあえて、上のすべてを考えた上で、新しいお皿を家に迎え入れることを決めた。

なぜか。

書くならばそれは、決意表明と言えるかもしれない。これから楽しい時間を生きていくという決意のための。

まだ幼かった頃、食事の時間が苦手だった。

食べるのが遅いと怒られ、口に詰めこみすぎて飲みこめなくなって怒られ、かといって時間をかけてがんばっていると「食べる気がないなら下げる」と皿を持っていかれそうになり……。

完食しなければならないというプレッシャーと、食べるのが遅い私が悪いという自責、涙の落ちた皿の模様。

トラウマ的な食事の記憶には、いつも親の家の皿がこびりついている。

心身のバランスがいちばん崩れていた数年前は、夕食時になるとえもいわれぬ憂鬱に支配され、息苦しい記憶のしみついた皿を見るだけで吐き気がせり上がってきていた。

様々な状況が変化した今こそ憂鬱からはある程度距離を取れるようになったものの、うちの食器棚を眺めた時にふと思った。

「本当に自分で選んで買ったもの、少ないな」

うちの食器棚は今、センスの良い友人からのもらいものと、持ち寄りの食器類で構成されている。

私が親と同居していた時から使っていたものもあり、それらは私が自分で選んで買ったものなのだけれど……トラウマを抱えた皿とともに実家に並んでいた時期を知っているがゆえに、どうしてもトラウマの残滓をまとっているように見えてならない。

あの頃、躍起になって自分の皿を買おう、買おうとしていたのは、きっと暗い記憶のしみついた皿から逃れたかったからなのだろう。逃避的な動機で買ったお皿は、根っこに逃避願望を抱え込ませてしまっている気がする。皿に罪はない。

状況が変わった今、もらいものでも、持ち寄りでもない、私が私の基準で気に入ったお皿を買ってみよう。

そしてこれから生きていく楽しい思い出をしみこませて、10年、20年と大切に使っていこう。

そんな決意が湧いたのだった。

パートナーを引っ張ってお店に走り、あれこれ相談に乗ってもらいながら連れ帰った2枚のお皿。

もちろん、人生楽しいことばかりではないかもしれないことは承知しているけれど、願わくは。

このお皿を見るたびに「今が楽しいな」「幸せだな」という感情が自然と湧いてくるような、穏やかで楽しい暮らしをしていきたい。

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