本当は「心が弱っている」んじゃなくて。
前よりも疲れやすくなった。
満腹感を覚えた後、食べ進められなくなった。
注意を受けた時の心的ダメージが大きくなった。
前は耐えられていたこと、我慢できていたことに対する耐性が、ここ数年でどんどん低くなっていく。
僕は弱っていっているのだろうか。
心身ともに衰弱して、このまま死んでしまうのではないか。
一時は本気でそうかもしれないと考え、恐れたりもしていたのだけれど。
僕はTwitterで見つけた言葉に救われた。
その人は確かアダルトチルドレンやトラウマを抱えた人たちに向けてアドバイスを発信している人で、文章からにじみでてくる優しさや、押しつけがましくない雰囲気が好きだ。
ストレスや衝撃に弱くなったと思っていた僕たちの目に、その言葉は飛び込んできた。
「自分が弱くなったのではなくて、麻痺させなければ生きてこられなかった心が通常の感覚を取りもどしてきたのです」
もうずっと前のことだから一語一句そのままではないが、内容としてはこのようなことをツイートしていた。
ああ、そうなのかな。
ようやく納得のいく理由を見つけた時の感覚で、その言葉は胸にすとんと落ちた。
いちど気づくと同じようなメッセージが引き寄せられてくる。
他の人たちも何人も、類似のツイートをしているのが立て続けに目に入ってきた。圧倒的な数日間だった。
思えば、人間というものは強くなることばかりを求められている気がする。
小さい頃から「そんなことで泣くな」と涙を否定され、悲しみを否定され、疲れて立ち止まっていると「もっと頑張れ」と引っ張られる。
休むことや自分らしいペースを見つけることも大切なはずなのに、どこでも、誰も教えてくれない。覚え方も分からない。
繊細な感覚を否定し、抑えこみ、ひたすら耐え忍ばなければならない環境に身を置かざるをえなかった。そこで生きるしかなかった。
今ごろ耐えきれなくなるのは、何年も経ってようやく、心の防御をゆるめても大丈夫だと思える安全を手に入れはじめているからかもしれない。
心をこわばらせておくことは、心が強くなることとは違う。
何年も警戒を続けていなければならなかった心は挑戦も成長の機会もなく、きっと昔のやわらかいままなのだ。
そのやわらかいままの心が現れてきたからこそ、「今まで我慢できていたこと」が「耐えられないこと」に変わっているのではないだろうか。
僕たちは弱くなったのではなかった。
むしろ強かったと誇ってすら良いのかもしれない。弱い心のままでじゅうぶん頑張ってきたのだ。もう無理をし続けなくていいかな。
心を固めて身を守る代わりに、やわらかい心をいたわりながら生きていく、新しい方法を探していこう。
そんなふうに思った。
Jessie
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