パリ五輪柔道の阿部詩選手の号泣姿をみて感じたこと
先ほど、パリオリンピックの柔道女子52キロ級で阿部詩選手が敗れるのをTVで観た。
途中まで試合を優位に進めていたが、まさかの一本負け、試合後に大号泣する姿が画面に大きく映し出された。
彼女はしばらく起き上がれず、声をあげ泣き崩れていた。この時のためにあらゆることを犠牲にして、言葉では言い表せない努力を重ねてきたのだろう。こちらも思わず、もらい泣きしてしまった。
カメラマンも詩選手の号泣する姿を撮ろうと、間髪を入れずにシャッターを切る。
うーん、なんだか可哀そう、こういう姿も撮らないといけないのかな、なんて私は思ってしまう。一般視聴者としては、見てられなかった。
私は7年前までマスコミの世界にいた。
なので、被写体が何であっても、どのような状況でも、報道する意義というのはわかっているつもりだ。
カメラマンとしては、仕事でもあるし、常に「歴史的瞬間」を狙い、どこにいても、シャッターを切るのは本能だろう。
報道機関というのは真実を追求しながらも、常に倫理を問われている。
オリンピックから、一気に話が飛躍してしまうが、1993年スーダンの飢餓を取材していたカメラマンが撮った一枚の写真が物議を醸した。ご存じの方も多いと思うが、それはハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている写真(ハゲワシと少女―The Vulture and the Little Girl)で、ニューヨーク・タイムズに掲載されると「なぜ少女を助けなかったのか」と大バッシングに発展したのだ。
「報道か人命か」の議論が繰り広げられたが、カメラマンは翌年、ピューリッツァー賞を受賞。その数か月後、悲しいことに、自殺してしまう。
オリンピックと命のかかわる戦争や飢餓の報道では、もちろん意味合いも違ってくるだろう。
ただ、試合後敗れた選手の絶望的な姿をみて、一視聴者としての私と報道する側、両方から考えると、とても複雑な気分になってしまった。
とはいえ、オリンピックの間は、選手をひたすら応援しながら、TV観戦を楽しみたい。私にはそれしかできないから。