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神社の社格で番付編成した!-解説 七道編②-


ご挨拶

こんにちは!
「神社の社格で番付編成した!」の第6回です!
今回は七道方の上位に番付された神社を解説したいと思います!

解説 七道編②

前頭3枚目:香椎宮(西海道-筑前 福岡市東区)

社格等:国史見在社、官幣大社、勅祭社
九州で宇佐神宮に次ぐ社格を誇るのがこの香椎宮です。
元々は霊廟であったために神社ではありませんでしたが、平安時代の中期以降には神社として扱われるようになったといわれています。祭神の仲哀天皇は応神天皇の父であり神功皇后の夫であることからか、宇佐神宮とセットで崇敬されていました。朝廷から宇佐神宮へ勅使が遣わされるときは同時に香椎宮への勅使も兼ね、とくに宇佐香椎使と呼ばれたそうです。
本殿の様式は香椎造と呼ばれる当社でしか見られない独自のもので、一見して他の神社の本殿とは違うことがわかりますよ!

香椎宮 中門
香椎宮 拝殿・幣殿
香椎宮 本殿側面
切妻の屋根が二つ見えます。

前頭4枚目:日吉大社(東山道-近江 滋賀県大津市)

社格等:名神大社、二十二社、官幣大社、正一位
比叡山の守護神、全国の日吉・日枝神社の総本社がこの日吉大社です。
東本宮と西本宮を中心にした広大な境内は現在も健在で、名社の多い近江国でも最大の神社といって差し支えありません!東本宮には比叡山の地主神と思われるオオヤマクイが祀られ、西本宮には大和の大神神社から勧請したオオナムチ(オオモノヌシ)が祀られています。西本宮は天智天皇が近江大津宮に遷都した際に創建されたとされ、当時の大神神社が天皇家から大いに崇敬されていたことが窺えますね。後には同じ比叡山に開かれた延暦寺との関係が非常に深くなり、かの伝教大師・最澄も当社を崇敬していたといわれています。平安京に近い立地条件の良さもあってか、延暦寺とともに中世に至るまで隆盛を極め、全国各地に勧請されて勢力を伸ばしました。しかし、織田信長の比叡山焼き討ちで社殿のほとんどを失ってしまい、現在は豊臣秀吉・徳川家康が再興したものだそうです。江戸時代には山王神道を巡って延暦寺と論争したり、明治には廃仏毀釈の急先鋒となったりしており、延暦寺との関係は必ずしも穏当ではなかったのかもしれません。
当社は紅葉の名所としても知られ、晩秋には最高の景観を楽しむことができ、牛尾宮・三宮が鎮座する八王子山を含めて余すことなく堪能するのをおすすめします!

日吉大社 東本宮・本殿
西本宮・宇佐宮と同じ日吉造という様式です。
日吉大社 西本宮・本殿
入母屋造に似ていますが、背面の庇が無い点が異なります。
日吉大社 牛尾宮
左側の影に三宮があります。

前頭5枚目:安房神社(東海道-安房 千葉県館山市)

社格等:名神大社、官幣大社、神郡、安房国一宮
古代の東海道において鹿島・香取に迫る社格を誇ったのがこの安房神社です。
現在の祭神は忌部氏の祖神であるアメノフトダマですが、古代には宮中の大膳職に祀られていた食の神たるミケツ(御食津神)が祭神とされていた、可能性があるそうです。この大膳職とは宮中の食事のうち、臣下たちの副食(おかず)の調理、食材の調達等を司る機関でした。安房国は海産物を朝廷に献上する役割を担っていましたので、国内最有力神社である当社に大膳職と同じ神様を祀っていたのはごく自然なことに思えますよね。当社は数少ない「神郡」も与えられた神社であり、朝廷から如何に重要視されていたかが窺い知れます。後世には安房国一宮となり、戦国大名の里見氏から本殿の造営、江戸幕府から社領の寄進がある等、篤く崇敬されました。
4月には参道の両脇に満開の桜が咲き誇り、蜜を集めるミツバチたちが春の訪れを感じさせてくれますよ!

安房神社 境内
奥に上の宮の拝殿が見えます。
安房神社 末社・厳島社
岩をくり抜いて祀っており、厳島社としては珍しい形態です。
安房神社 参道の桜
ミツバチがせっせと蜜を集めている姿に癒されます。

前頭6枚目:宗像大社(西海道-筑前 福岡県宗像市)

社格等:名神大社、官幣大社、神郡
九州きっての古社といえばこの宗像大社です。
当社は辺津宮・中津宮・沖津宮の三か所に社殿を構えており、特に沖津宮が鎮座する沖ノ島は海の正倉院とも称されるほど考古学的に貴重な場所で、有史以前の可能性がある祭祀遺物等が発掘されています。また、この沖ノ島は朝鮮半島へ至る航路上の重要拠点であったこと、記紀の三韓征伐のくだりに神功皇后が航海の安全を祈ったという神話が記されていることから、海上交通の神として信仰されたのも頷ける話ですよね。当社もまた神郡を与えられた数少ない神社のひとつで、奉斎氏族の宗像氏は武装してこの広大な社領を守りました。戦国時代に継嗣が絶えて断絶してしまったものの、その信仰は今日でも揺るぎなく続いています。
余談ですが、筑前国というのは太宰府が置かれたことからもわかるように非常に重要な拠点でした。自然この国にはハイレベルな神社が多く鎮座しているのですが、宗像大社はその中でも筆頭といって差し支えないほどの大社です。もし国府がもう少し宗像に近ければ、当社こそが筑前国一宮になっていたかもしれませんね。

宗像大社 本殿
宗像大社 第二宮(右 沖津宮のタゴリヒメ)・第三宮(左 中津宮のタギツヒメ)
この社殿は伊勢の神宮が式年遷宮した際に、別宮の古殿を下付されたものです。
宗像大社 高宮
宗像大神「降臨の地」とされ、社殿を創建することなく神籬を以て祭祀を行います。
沖ノ島と並んで当社の最も神聖な場所とされています。

前頭7枚目:三嶋大社(東海道-伊豆 静岡県三島市)

社格等:名神大社、官幣大社、伊豆国一宮
名社の多い東海道でも指折りの社格を誇るのがこの三嶋大社です。
三嶋とは伊豆諸島のことを指し、三嶋の神はその開拓神とされていました。古代の伊豆諸島は火山活動が盛んで、それに対する畏れが当社の信仰の始まりではないかといわれています。延喜式では七道の神社には稀な官幣の名神大社とされ、朝廷から重視されていたことが窺えます。中世には源頼朝による源平合戦の戦勝祈願に始まり、鎌倉・室町幕府からの社領寄進等の記録が多く残っており、武家から篤く崇敬されていました。江戸時代になると東海道三島宿を門前町としたことで庶民も盛んに参拝するようになり、あらゆる階層の人々からの信仰を集め現在に至ります。
噴火の記録が残る伊豆諸島・神津島の神様は当社祭神オオヤマツミの后(阿波命神社)と子(物忌奈命神社)です。夫として、父として、荒ぶる家族を宥めているのかもしれませんね。

三嶋大社 舞殿・拝殿
三嶋大社 拝殿の破風
彫られているのは仙人でしょうか?
三嶋大社 神池
桜満開の晴れた早朝に訪れてみたくなりますよね。

前頭8枚目:丹生都比売神社(南海道-紀伊 和歌山県伊都郡かつらぎ町)

社格等:名神大社、官幣大社、紀伊国一宮
和歌山は高野山の麓に鎮座する名社がこの丹生都比売神社です。
かの高野山真言宗の総本山・金剛峯寺の守護神で、上述の日吉大社とよく似た立ち位置の神社ですね。元々は高野山の辺りの地主神だったと考えられ、空海の開山に際して高野山の神領を授けたという話が今昔物語にも登場しているそうです。鎌倉時代の元寇・弘安の役の時には「神々の先陣を切って出陣する」との託宣を下し、暴風雨すなわち神風を以て元軍を海の藻屑としならしめました。この神威を幕府は畏れ敬い当社を紀伊国一宮と定めたといわており、かつては武神としての側面も有していたのかもしれませんね。
社殿が森や禊川のせせらぎと融合し、自然の清らかさと静けさに包まれる素晴らしい神社ですよ!

丹生都比売神社 鳥居・楼門
丹生都比売神社 輪橋と池
丹生都比売神社 禊川のサワガニ

前頭9枚目:伊弉諾神宮(南海道-淡路 兵庫県淡路市)

社格等:名神大社、官幣大社、一品、淡路国一宮
伊勢の神宮、アマテラスの両親を祀るのがこの弉伊弉諾神宮です。
当社が鎮座する淡路島はイザナギ・イザナミが産み出した最初の島といわれており、国産み・神産みを終えたイザナギは淡路の幽宮すなわち当社に鎮まったと日本書紀に記されています。祭神はイザナギのみを祀ったりイザナミも祀ったり、時代によって変遷がありましたが、1932年になってイザナギ・イザナミの二柱に定まりました。中世には坂上田村麻呂の末裔と称する田村氏が神主を務めましたがその断絶。江戸時代に淡路島は徳島藩領となり、藩主の蜂須賀家から社領を寄進される等の崇敬を受けたようです。
我が国最初の夫婦であるイザナギとイザナミを祀るだけあって、縁結びや子授け、家内安全の御利益が有名なようですよ!

伊弉諾神宮 幣殿
伊弉諾神宮 本殿
伊弉諾神宮 東神門

次回

今回はここまでです。
次回も引き続き番付された神社を解説しますので、
またご覧頂けますと幸いです!
ありがとうございました!

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