「○○の歌をアイドルと一緒にすんな!!!!!」

と、思う気持ちが全面に出てしまう出来事があったので、そこを起点にいろいろ考えて言葉にしました。

一応言っとくと普段はタイトルみたいなこと言いません
アイドルが歌っている歌でも音楽的に良いもの・良い表現はあると知っているし、中身の比率について話しても不毛なトゲトゲを産むだけだとわかっているので。

では、わたしは何を見てしまったのか。

YouTubeのコメント欄

あるアーティストのMVが公式からアップされていました。
とっくに知っていた曲なのもあり、懐かしく聴きながらコメント欄を見てみた。

すると、ある普通のコメントの返信欄が盛り上がっている様子……?
わたしは何の気なしにその返信欄を開いてみました。

するとどうやら、返信欄の中に以下のような感じの意見の人がいて、反論や返信でコメントが増えているようでした。

「でも、この人ファンのために歌ってるの? ファンのために歌ってもない人のこと支持しても虚しくない?

※要約してます

これは『音楽』ファン的には結構反論したくなる考えです。……ですよね?

現にわたしは
意味わかんねー! ママの子守唄(※)でも聴いてろ!」「一生音楽聴くな
など色々と思いました。とても口が悪いですね。
※愛をこめて子守唄歌ってくれるママいなかったらごめんね!

でも、誰のために歌ってようが何であろうが歌は歌。音楽は音楽です。
誰がためのパヴァーヌであれ、いいなーと思えばそれはいいなーってことです。

反論する人たちもだいたいこんな感じに説明しました。

「音楽を良いと思ってそこにリソースを割くだけのこと。ファンのための音楽かどうかで考えることでもない」

(※要約)

しかし彼もしくは彼女は譲りません。
反論してきた人たちのことを『信者』とまでいいはじめるほどです。

『現代アイドル』と『音楽』

なんやこいつ……と思いつつわたしはコメント欄でのやり取りを追ってみました。

すると、彼もしくは彼女はこんな感じのことを言い出しました。

「愛情を返してくれるわけでもないアイドルに金を使うのと同じだ」

※フェイク入れたいのでやはり要約

そこでわたしは思わず画面前で言ってしまいました。

「○○の歌をアイドルと一緒にしないでくれ!!!!!」

この一緒にしないでくれというのは、
「愛情めいたもの承認と交換する通貨としての音楽と、ただ純粋にそれそのものが価値を持つ音楽を一緒にしないでくれ!」
ということです。

ここでのアイドルは、彼もしくは彼女の文脈から取って『ファンの愛により買い支えられる現代アイドルの一典型』(特に愛を与えると見せるもの)と定義しています。

アイドル側からファンに渡すものまで『愛』と表現すると重く感じるかもしれませんが、承認という意味ではよく振りまかれているのではないかと思います。
接触やコメ返が一番わかりやすい取扱口ですね。

勿論アイドルちゃんたちだってスタッフのみなさんだって音楽的にも素晴らしいものを出そうとしています。それは承知してます。
でも、やっぱり音楽を通貨にしているところは否めないと思うんです。握手券付きCDとかさ。

Vtuber文化も主に花開いているものはそういう文化かなと思います。
音楽や動画の面白さもあれど、『推し』という個体識別をした段階で既に応援のためのグッドボタンを押す気風があり、そこにやはり『その人“との”良好な関係を想えるか』は関わりがある。

……とはいえ彼もしくは彼女のいう「愛に愛を返してもくれない」に関しては是も非もいえません。人による。
(逆にそんなもの期待させる売り方してないアイドルやVもいますよね。それもわかってます)

グリコのおまけ

しかし、そのアーティストはアイドルではありません。

少なくとも笑顔とファンサで売ってきた人ではありません。
動画も、本当に『音楽』の動画です(顔はまあ映ってますが)。

つまり、彼もしくは彼女は、『音楽』の動画のコメント欄で『現代アイドルへのお金の使い方』について述べ続けていた、ということです。

それは何故か? 理由を考えてみると、ひとつの仮説が浮かびます。

彼もしくは彼女は、通貨以外の価値を持つ『音楽』を知らないのでは?

もっといえば、彼もしくは彼女は『音楽そのもの』に価値があるということを知らない(忘れてしまった)のでは……?

おまけ目当てで買うグリコしかしらない、お菓子はそもそも家族が食べちゃうのが日常の子供がおまけなしのグリコを与えられたら、きっと「無じゃん!」ってなると思うんです。

彼もしくは彼女にとっての音楽の価値は『“自分への指向性がある愛”が入っているか否か』で決まっていて、他人が違う基準で音楽を聴くことには及びもつかない。

そう考えると筋が通ってしまうのです。

『現代アイドル・Vtuber』文化と音楽

ところで、わたしはまだオバケじゃないけど一応ロックバンドなので、音楽はやってます。路上ライブとか好きです。

ただ、聴いてもないうちから「がんばりな~」と言って投げ銭して一秒も聴かずに去っていくおじいちゃんおばあちゃんにあったときに一番に思うことは
「こなくそ」
です。

もっと正確にいうと「ありがたいけど仕方ないけどくやしい。いい演奏を以てこの評価をすすがなければ」です。

こうなる理由は、「投げ銭はもらったけど音楽は評価されていないから」です。
わたしは一応ロックバンドなのですこし極端かもしれませんが、音楽家が『音楽家として』思うところとしては、それほど常軌を逸した感覚ではないと思います。

そう、握手付きCDとか、応援のためだけのまだ見てない段階でのグッドボタンとかを受け入れる感覚とは違うんです。

(上の段で例にしたタイプの)現代アイドル・Vtuber文化って、それの“何を”評価されたか問わない感じなんですよね、見てる感じ。
問うても得しない。だから言わない。

極端な商業主義と同じですね。

そして受け側も、”何を”提供されたかをあんまり問うてないところがある。『誰か?』である。

その『誰』の条件が「ファンを想ってくれる人」「神対応だった」でも、誰も首をかしげない。愛され(※広義)目当てで動くことを許容する文化なのです。

『私(たち)に指向性のある愛をくれた』⇔『だから好き』⇔『音楽買う』が一直線に並んでいるのも普通のことで、ブレーキなしの台車がお金を乗せて転がっていくのを、多くの人が見過ごしていく。

『推し』文化は音楽が通貨になるのをよりスムーズに受け入れる構造になっているのです。

一緒にすんな

正直音楽と一緒にすんなって感じなんすよね(感情)。

前提として、おまけ目当てでグリコを買う自由が人にはあります。
でもグリコ以外のお菓子に『肝心のおまけがない足りない品』なんてくだらねー烙印を押されたらぼくはキレます

そして、コメント欄の彼もしくは彼女のことは、貧しい人だなって思ってます。

『ファン(っていうか自分自身)への指向性を持つ愛』の有無だけで何かの価値を噛み分けた上にそれを常識的だと勘違いするなんて、美しさを感じる器官が目詰まりしてんじゃないかと思う。

たまたま壊れて流れただけの星の光が尾を引く美しさや、低きに流れるだけの風の感触の心地よさを無価値と断じるくらい貧しいと思う。

勿論、彼もしくは彼女は極端です。
だけど、「これに近い状態になっている人ってレアか?」とも思う
んです。現代アイドル・Vtuber系統のアレコレ文化を眺めていると。

愛が入っていたら嬉しい、ってことは否定しません。
かくいうわたしも(音楽の話じゃねーが)テレビの前のキッズだったわたしたちをナメなかったよねって理由込みで古橋を敬愛しているし、交流を悪ともいえません。
だけど、そうやって白黒つけれないところをじわじわ侵食してこうなってるんだよね。とも思うんです。

だからすべてを白黒つけれないとわかった上で、それでも改めて、もういちど言い直します。

「その熱狂と音楽を、一緒にすんな」



5/31当日中昼頃、わかりにくかったり微妙に表現おかしかったりしたのを手直ししてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?