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「太宰治と人間失格の神髄は」

 太宰治の名作と言われる「人間失格」ですが、彼は何度「自叙伝的な苦悩に悩む主人公について」書いたのでしょうか?
 
 最初に書いた濃度の濃い「自叙伝小説」をどんどん水で割り、薄めて引き延ばしたのが「人間失格」のように思える。
 
 これは、わたしが言ったことではなく、現在では80才を越えているだろうと思われるK氏が言ったことだ。彼は、河出書房のすばらしい編集者であり、自らも芥川賞を狙い小説を書いていた。数回芥川賞の次席になりオール読物であったらいつでも掲載してくれたが、それを断り書き続けた。
 
 いろいろな著名な作家と飲食をともにしていた。
 太宰治とも彼が子供の頃、新宿の屋台で同席したと話してくれた。
 
 わたしは、学生の頃、太宰治は全集で読んでいる。
 「晩年」の中の「思い出」という短編は好きだ。
 「二十世紀騎手」の実験的な「逆光」も好きである。
 わたしにとって、「人間失格」はぼんやりとした作であり、無理してというか、わざわざ書かなくても良かったのではないか、とさえ思えて来る。
 
 出版社は、喜んだであろう。
 彼が死に作品が一層売れるからである。
 
 太宰治の死後、発見されたのが「人間失格」だ。「人間失格」を書き終え、生前の整理整頓をし亡くなったのではないのである。
 そこら辺の時系列を間違えて「人間失格」を読み、これで太宰は思い残すことなく死ねたのだろう、というのは間違えている。
 
 太宰は、人間失格を編集者には手渡さなかったが、書き終えた後、朝日新聞の連載小説を書いている。
 新聞の連載小説がまわぅてくるというのは、作家として一流だということだ。書けば売れるということだ。原稿代金は破格に良かったと思う。
 
 なぜ、みんな「太宰」に固執するのかわからない。
 
 歳を取ればとるほど、太宰の良さがわからず、魅力が消えていく、薄くなっていくようだ。
 
 短編では、すばらしいものがいくつもある。
 だれもがそれを取り上げ、批評しようとはしない。
 
 太宰と言えば、「走れメロス、斜陽、人間失格」くらいではなかろうか。
 佳作なさっかであったとはおもう。


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